複雑な事件が起こった。といって、なにも事件自体が複雑なのではない。いたって単純な事件だ。それを受け止めるぼくの心が複雑なだけだ。
ご存知だろうか?兵庫県の男性(24歳)が女性(13歳)を連れ回したというタイトルでニュースになった事件である。連れ回したというが、実際は女性の家出とともに、ふたりで一緒に暮らすために東京に出てきていたところを補導されたというわけだ。男性は逮捕である。犯罪はといえば、未成年の女性を連れ回したかららしい。言葉使いの不自然さは置いておくにしても、ふたりは結婚を反対されたらしく、いわばかけおちのかたちで故郷を飛び出して行ったのだ。
なんでぼくがその事件を複雑に思うかというと、ま、グルッポ・テアトロで公演をやるために、『お夏清十郎』に取り組んでいるのだが、その話はまさしくかけおちの話。お夏と清十郎がかけおちをして、捕まって、清十郎が処刑されるのだ。そんな話にかかりきりだから、かけおちという言葉に敏感になる。そして今回の事件もひとりが捕まった、お夏清十郎の物語と同じ、女性をかどわかした罪によって。そして、同じ兵庫県から抜け出してきたということにも偶然を感じた。
いってみれば、この事件をニュースで見たときに、偶然の出会いに喜んだのだ。現代でもかけおちは確かにあるのだと。
しかし、今回の事件でふたりが捕まって、男性が逮捕されたということに腑が落ちないので、複雑な気持ちになるのだ。くわしい事情は知らない、二人の人物像も知らない、しかし、かけおちが現代でもひとつの犯罪の名を着せられて、処罰されるところにいい気持ちはしないのだ。
現代ではさまざまなかたちの犯罪があり、殺人やら、暴力やら、詐欺、窃盗、横領、性犯罪など、事件が多く勃発している。これらの犯罪に並べられて、この事件が、同じ夕方のニュースに出るところに、何か恐ろしい道徳心の押し付けを感じるのはぼくだけだろうか?少なくとも、この二人は同意のかけおちなのだ。そこに単なる家出以上の愛情が混ざっていることも、気がかりのひとつなのだ。まあ、逮捕という事実を伝えたのかもしれないが、このニュースを人々がどう受け取るかが問題だと思う。ぼくは、少なくともこのふたりは、人間とその心に傷をつける行為はしていない限り、たとえゲームセンターで遊んでいるところを補導されたとしても、一般の犯罪と同列にしてはいけないと思う。聞くところによると、結婚を両親に反対されて飛び出したという理由もあるのだから。
でも、単にぼくが『お夏清十郎』にとらわれて、かけおちを美化しているだけかもしれない。実際はどんなだか。ロマンを期待しすぎているのかも。今回のふたりは公園などに野宿したという。東京に出てきて何になる?と思う。しかし、出たいという気持ちは準備や経済力などを乗りこえていく、やっぱり本当のかけおちだと言い聞かせたりもする。
お夏清十郎の伝説では、庶民や芸術はすべてふたりに同情した。
今回のかけおち事件では、庶民はどんな反応を示すであろうか?興味がある。
こんなときはマスコミや、杓子定規な法律や、頑なな倫理観というものは非情な判断しかしない。そんなものに期待はしない。市民の感情はそれをどう受け止めるか、それが知りたいものだ。
*ちなみに、かけおちというと江戸時代は失踪・逃亡・脱走など、広い意味で使われていた。恋愛事件のかけおちも含まれるが、とにかく逃げることの多い時代だったらしい。
*また、ちなみに、現代では男女の恋愛の末の逃亡のみをかけおちという呼称で使用するが、一方もしくは双方に保護者がいるときには、刑法で、結婚目的の誘拐と見なされるようだ。
ご存知だろうか?兵庫県の男性(24歳)が女性(13歳)を連れ回したというタイトルでニュースになった事件である。連れ回したというが、実際は女性の家出とともに、ふたりで一緒に暮らすために東京に出てきていたところを補導されたというわけだ。男性は逮捕である。犯罪はといえば、未成年の女性を連れ回したかららしい。言葉使いの不自然さは置いておくにしても、ふたりは結婚を反対されたらしく、いわばかけおちのかたちで故郷を飛び出して行ったのだ。
なんでぼくがその事件を複雑に思うかというと、ま、グルッポ・テアトロで公演をやるために、『お夏清十郎』に取り組んでいるのだが、その話はまさしくかけおちの話。お夏と清十郎がかけおちをして、捕まって、清十郎が処刑されるのだ。そんな話にかかりきりだから、かけおちという言葉に敏感になる。そして今回の事件もひとりが捕まった、お夏清十郎の物語と同じ、女性をかどわかした罪によって。そして、同じ兵庫県から抜け出してきたということにも偶然を感じた。
いってみれば、この事件をニュースで見たときに、偶然の出会いに喜んだのだ。現代でもかけおちは確かにあるのだと。
しかし、今回の事件でふたりが捕まって、男性が逮捕されたということに腑が落ちないので、複雑な気持ちになるのだ。くわしい事情は知らない、二人の人物像も知らない、しかし、かけおちが現代でもひとつの犯罪の名を着せられて、処罰されるところにいい気持ちはしないのだ。
現代ではさまざまなかたちの犯罪があり、殺人やら、暴力やら、詐欺、窃盗、横領、性犯罪など、事件が多く勃発している。これらの犯罪に並べられて、この事件が、同じ夕方のニュースに出るところに、何か恐ろしい道徳心の押し付けを感じるのはぼくだけだろうか?少なくとも、この二人は同意のかけおちなのだ。そこに単なる家出以上の愛情が混ざっていることも、気がかりのひとつなのだ。まあ、逮捕という事実を伝えたのかもしれないが、このニュースを人々がどう受け取るかが問題だと思う。ぼくは、少なくともこのふたりは、人間とその心に傷をつける行為はしていない限り、たとえゲームセンターで遊んでいるところを補導されたとしても、一般の犯罪と同列にしてはいけないと思う。聞くところによると、結婚を両親に反対されて飛び出したという理由もあるのだから。
でも、単にぼくが『お夏清十郎』にとらわれて、かけおちを美化しているだけかもしれない。実際はどんなだか。ロマンを期待しすぎているのかも。今回のふたりは公園などに野宿したという。東京に出てきて何になる?と思う。しかし、出たいという気持ちは準備や経済力などを乗りこえていく、やっぱり本当のかけおちだと言い聞かせたりもする。
お夏清十郎の伝説では、庶民や芸術はすべてふたりに同情した。
今回のかけおち事件では、庶民はどんな反応を示すであろうか?興味がある。
こんなときはマスコミや、杓子定規な法律や、頑なな倫理観というものは非情な判断しかしない。そんなものに期待はしない。市民の感情はそれをどう受け止めるか、それが知りたいものだ。
*ちなみに、かけおちというと江戸時代は失踪・逃亡・脱走など、広い意味で使われていた。恋愛事件のかけおちも含まれるが、とにかく逃げることの多い時代だったらしい。
*また、ちなみに、現代では男女の恋愛の末の逃亡のみをかけおちという呼称で使用するが、一方もしくは双方に保護者がいるときには、刑法で、結婚目的の誘拐と見なされるようだ。
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