恋をすればだれでも詩人になるとは、よく言われることで、恋愛詩は詩の中の花形であるということはぼくの思い込みだろうか?それほど、恋愛は重要で美化したいものであることは確かだ。恋をして善良にならなければそれは恋ではなく、また、詩に意地悪の入る余地はない。恋愛詩は善良で素直であるからこそ、苦痛を歌ったり、豊かな喜びを歌うのであろう。同じく恋をする人は、意地悪くなれないからこそ相手の懐に身をまかせる覚悟があるのだろう。
数多くの詩人が愛を歌い、愛しか歌ってないかのように思えるのは決して不幸ではない。ハイネが砂浜に夕日の筆で「あなたを愛する」と書くのも、ダンテが恋人を天国に連れていくのも、サッフォーががけから飛び降りるのも、みな現実に恋をし、恋を表現することで決着をつけたのであった。
これらの作者は詩を書くことで死を免れたのかもしれない。実際、人間はいつまでも感情のくすぶりのなかでは生きられない。それから逃げるか、否定するか、決着をつけるかしなければ・・・
俳優の卵は自分が悲しくて泣いたときも、その感情を記憶しようと意識が働くし、もしかして泣いているときもふと鏡でチェックしているかもしれない。恋愛をして、詩人として詩を書き続けている人も、もちろんそんな意識が働いているに違いない。自分の熱烈な経験を、詩をかく材料にする、それは少しも不純でない。かえって詩になったからこそその恋愛が意味を持ったのかもしれない。
個々の恋愛はたいしたものでなくとも、それを昇華させた恋愛詩には価値がある。
こんなぼくも恋愛をして、それを詩にした。ぼくの恋愛はどうでもいいことだが、残った詩は何十年か後に自分で振り返ることもできるし、ぼくという固有名詞をはずして考えることができる。実際、今、苦々しく読んでいるのだから。考えが未熟でも、表現が幼稚でも、それなりの自分がいたことは確認できる。そんなのでいいのかもしれないな。
『ざれごと』
やけに落ち着く 外は雨
思いはすぐにあの人にとぶ
今日は何をしているか
そしてわたしは何をすべきか
やさしい顔が目に浮かぶ
あのときこんな話をしたな
あんな相づちうたないで
そっと好きだと言えたはずだが
また繰り返し日が沈む
ためらいでない 待っているのだ
恋が私に腕を貸し
不純な汚れを消し終わるまで
数多くの詩人が愛を歌い、愛しか歌ってないかのように思えるのは決して不幸ではない。ハイネが砂浜に夕日の筆で「あなたを愛する」と書くのも、ダンテが恋人を天国に連れていくのも、サッフォーががけから飛び降りるのも、みな現実に恋をし、恋を表現することで決着をつけたのであった。
これらの作者は詩を書くことで死を免れたのかもしれない。実際、人間はいつまでも感情のくすぶりのなかでは生きられない。それから逃げるか、否定するか、決着をつけるかしなければ・・・
俳優の卵は自分が悲しくて泣いたときも、その感情を記憶しようと意識が働くし、もしかして泣いているときもふと鏡でチェックしているかもしれない。恋愛をして、詩人として詩を書き続けている人も、もちろんそんな意識が働いているに違いない。自分の熱烈な経験を、詩をかく材料にする、それは少しも不純でない。かえって詩になったからこそその恋愛が意味を持ったのかもしれない。
個々の恋愛はたいしたものでなくとも、それを昇華させた恋愛詩には価値がある。
こんなぼくも恋愛をして、それを詩にした。ぼくの恋愛はどうでもいいことだが、残った詩は何十年か後に自分で振り返ることもできるし、ぼくという固有名詞をはずして考えることができる。実際、今、苦々しく読んでいるのだから。考えが未熟でも、表現が幼稚でも、それなりの自分がいたことは確認できる。そんなのでいいのかもしれないな。
『ざれごと』
やけに落ち着く 外は雨
思いはすぐにあの人にとぶ
今日は何をしているか
そしてわたしは何をすべきか
やさしい顔が目に浮かぶ
あのときこんな話をしたな
あんな相づちうたないで
そっと好きだと言えたはずだが
また繰り返し日が沈む
ためらいでない 待っているのだ
恋が私に腕を貸し
不純な汚れを消し終わるまで
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