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ことばは教えてくれない

サンクトペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場「小犬を連れた奥さん」を見てきた。芝居の質というか余裕というか、丁寧に作り上げられている芝居は、見ている人の想像を動かしてくれる。生活の真実がまさしく体現されていた。 特に質が高かったのは出会いの場面。非言語的なやりとりが舞台上で丹念に行なわれていて、視線や体の向き、人間同士の距離、ときおりもれるため息やつぶやきを推し量ることで、見知らぬ人の出会いに共感を覚えることができた。ロシア語の芝居だったが、言葉を分からなくても理解できるのは貴重な体験だ。 普段わたしたちは言葉で語ることよりも言葉を使わないやりとりでお互いを理解しているという。非言語コミュニケーション。電車のなかでお互いに距離をとって座席にかけるのもそれだし、路地でお隣さんが上を見上げていたら同じように上を見上げるだろう。 出会いの場において、実生活では非常に念入りに探りを入れている。それが5秒だとしても、たくさんのことをその間に行なっている。目を向けたりそらしたり、防御の姿勢をとったり友好のしるしを表したり、ぼさぼさの髪やよれよれのシャツをチェックしてみたり、指にはめられている指輪を確かめたり。 わたしたち演劇を作る人が追求すべきなのは、ことばをどのような言い回しでいうかとか、どんな感情でいるかということではない。まったく違う。ことばを発する間にしていること、行間の部分を埋めることなのだ。誇張が必要なのであれば、感情表現でなく、ことばを発していないときにしている「人間の行動」を細かく拾いあげ、丹念に、明確に表現すればいい。 「ことば」を人間の顔だとすると、からだで行なう「人間の行動」が根底になければならない。顔だけの人間がからだを回復する試み、これが演劇を作る人につきつけられた課題だと思う。セリフだけでない緻密さが望まれている。