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2月, 2008の投稿を表示しています

陸上のイージス艦

ちまたにニュースがあふれているが、メディアの側の取捨選択だけを頼りにすることは、一般の生活者だとしても怠惰と言わざるをえない。事件なり話題なりが生活に密着していようといまいと、ニュースから飛躍して、想像して、また生活に関連づけるような試みをしていかないと、メディアに飼いならされるのが落ちかもしれない。 イージス艦の衝突事故の問題。 事故の原因究明・防衛省の体質などが争点になっているが、その追及はもっともなもので不足はない。しかし、いったんその話題がお茶の間に乱入してきたときに、私たちが事故の事件性や自衛隊の問題としてだけとらえてしまうと、この事件は一過性のものとして忘れ去られていく。私たちの問題ではありながら、批判し、客観視することで、よそものとなっていく。 忘れ去られる危険性はそんな客観視した姿勢にあると、ぼくは思う。想像をしてみれば容易に身近な問題、人間の問題であって、単なる事件や官僚の問題でない。権力と横暴は身近にあると思うのだが。そこまで、自分の問題として、生活のレベルとして考えることをしないと、一過性の事件として多くのニュースに埋もれるにまかせるままになる。 要は、イージス艦が海上で行った不注意と意図しない横暴は、たとえば、陸上で日常茶飯事に行われている、自動車の横暴にほかならないと言いたいのだ。 横断歩道を猛スピードで、止まりもせずに突っ切る車。狭い生活道路をそこのけとばかりにクラクションを鳴らす車。一方通行だからと優先権を持ったかのように走る車。 そう、だれでもイージス艦になる可能性を持っているのだ。 どんなに善良な人間も、自動車に乗ると、歩行者を邪魔者扱いする事例を何度か見てきた。後方から別な車が煽るから急がざるをえず、車同士での論理でもって、乱暴に歩行者・自転車を押しのけていく。 小さい船がどけるだろうからというおごりは、見事に自動車にもあるのだ。確かに小回りの利かない車が堂々と横断歩道や道の真ん中にいたら、それを移動しろとはなかなかいえず、嫌々、歩行者が遠回りしたりよけたりする。 親切なドライバー、きちんと通行者の感受性を察して運転するドライバーもきちんといる。そういう運転手の存在の有無・多少を問うているのではない。 イージス艦の事件を海上の問題、大きな国家の問題として、生活者の視点から放り投げてしまう危険性が問題で

勉強

ほんといろいろ勉強させてもらっています。いろいろ。 世の中というものはおもしろいものですね。 同じことをやっても、同じ作業をやっても、今と昔ではまったく違ったものになる。少なくとも今のほうが滑らかに為せる。 角もとれて丸くなる。丸くなるのは年輪を増やして贅肉がつくわけでない。贅肉をそぎ落としたために丸くなるということもある。 昔はカっとしていたことも、今はそれを抑える術を身につけた。同じ客、同じような人間、同じような事象があっても、昔と同じように怒っていても進歩がない。 お金を投げるお客も、急に方向を変えるタクシーも、幅よせしてくる車も、なかなか来ないエレベータも、無愛想な店員も、みんなみんな…怒りを和らげ、肩の震えがなくなったときに、いったい何が残るか? 処世術とでもいうのか?確かに、いつまでも怒りまくっている人生もおもしろくないものだ。かといって、何にも怒らない無気力の状態にはなりたくない。そのために、あえて怒りを爆発させることを課題にしてきた今までとは違って、要所要所で怒るという人生を選択する。 何を言いたいのか意味不明…ははは… 結局、今生きている自分と、その周囲、大きく視野を広げて世界のすみずみ、それを生きやすくするために、自分も世界も変革しなければいけない。 自分と世界が何を問題としているのか、少なくとも身近な人が何に困ってどうしたいと思っているのか。 それを探る、探る、探る。 やはり、世の中を勉強しなきゃね。 わけわからない文章、失礼ござんした。今日は酔いどれの文章になってしまいました…ははは…

憂鬱な思い・・・

少し前になるが、あるつまらない芝居を見て、そのパンフに、自信たっぷりの紹介文があるのを見つけてから、ぼくは少し憂鬱な気持ちになった。 宣伝や言明がどれだけ本心なのか?書いている本人は本気でそれを書いているのか? 自社の製品にどれだけ欠陥があろうと、欠陥商品なんです、などと宣伝するわけにはいかない。他に商品があり、選択肢がある状態ならともかく、「あまりおすすめはしませんが、この音楽グループの新しいCDを買ってください」なんてことをしたら、商売として成り立たない。 以前ぼくも、あまり良い作品なのではないのですが、公演を観にきてください、なんて紹介文を書いてしまったことがあるが、友達の公演とはいっても、時間やお金をかけて観にきてくれる人に、失礼なことをしてしまったと、今さらながら思う。 嘘でもいいからカーテンコールは笑顔でやるべきだともいうし、楽しくもないのに笑って踊るほうが、笑顔で踊らないよりも楽しそうに見えるし好感も持てる。 自社の製品に批評的になる必要はないにしても、宣伝や誇張ばかりしていると、次第に自分の考えも宣伝などの言明に近づいていくからおもしろい。誰がどうみてもひどい内容の演劇の公演を、いつもの大々的な宣伝と自己賛美のために、平気で垂れ流したりする団体もある。代表者が口ではいいことを言うのに、観るたびに失望に襲われる団体もある。劇場はいいけど、そこで行われる芝居がねえ、なんてかげぐちが聞こえる団体もある。 どこかで立ち止まって検証することが必要なのだ。なのに、生きることに精いっぱいで、生活のために、存続のために、誇大妄想が癖になってしまう。口では自己批判を厳しくいいながらも、相も変わらぬ行動をすることが癖になってはいけない。 検証するために、一度すっぱり離れてみるのもいいし、休んでみるのもいい。そんな意味で、旅や休暇が人間には必要なのだな。 それにしても憂鬱は収まらない。時間とお金をかけて楽しい時間を過ごしにきたのに、不愉快になるほどの芝居の出来だったから。精神的な快楽も与えるものなのだよね、芝居って。そのためにわざわざ劇場に足を運ぶのだもの。

おーい,goo!

せっかく書いて、きちんと手続きして投稿した文章が消えてしまったよ。 きちんとボタンを押したのにこれじゃな。 不愉快だぞ! 何度こんな目に会ったか… 耐えるしかないのか?運命か? な、あほな! やる気なくすね、こういうの。

いつまでもどこまでも

今日は、銀座のギャラリーで催された友達の主催の展覧会に行ってきた。その後、バイトもあったのだけど、展覧会からの流れのまま気持ちよく仕事ができた。まあ、土曜日で・寒くて・人が少ない・販売の仕事だったから、暇だったこともある。 バイトの前の展覧会で、そこに作品を出品している作家さんとお話しをした。いいね、ほんと。物を作る人の魂を感じた。こつこつと作り続けること。趣味であろうが、仕事であろうが、楽しみをもって作り続けること。勉強になった。出品していた作品もセンスがあったので、結果にも表れているし。感じのいい人でもあった。 その展覧会では、『お夏清十郎』公演の作曲家である、若柳吉三郎さんのギターデュオも聞けた。素晴らしかったです。 いいね、ほんと。人と接して、いい技術と、いい結果にめぐりあう。 その後の小売りのバイトも、落ち着いて、ひとりひとりのお客さんに接することができた。 もう終わったけど、主催者はこんな店も開いております。紹介しておくね。 ボックスショップ&ギャラリー cocokara そこで知り合った作家さん。(デザインの作家です) Boskyさんのホームページ 普段は無愛想に「大関とバタピー」を買っていくおじさん。今日はにこにこしていた。 リンクなし。(知りたければ上野に来いってか…?) 今日読んだ本。 「日本語の作文技術」(本多勝一) 世田谷は思ったよりも積雪があった。 おやすみ。

音楽は記述することが可能か?(6)

音楽は記述できるか、という問いかけをずっとしてきたわけだが、今になって気づいたことは、もともとのこの問いかけ自体が意味をなすものなのかという疑問である。 命題がずれていたら答えもずれる。良くない質問には答えようがない。 とはいっても、ずっと書き続けてきたことの締めくくりは必要なわけで、だから、これは失敗の記録として締めくくりたいと思う。 もともとの問いのたて方が、「音楽は記述することに意味をもつのか?」であったなら答えることもできたと思う。なぜなら、音楽が音楽である限り、文字を使って記述したのなら、それは、音楽そのものでなく、音楽について書いたことにほかならない。それは自明なことで、そこに問いを投げかけると、言語哲学などの領域になってしまい、そこにぼくは興味がない。 ならば、記述できるかできないかを問うよりも、記述することでどれほどの意味をもつものなのかを探ったほうが、生産的に思えるのだ。 ま、また回りくどくなってしまったので、意味があるかないか結論を言おう。 音楽そのものでなく、その音楽の周辺情報は、音楽家のことばにせよ、文章にせよ、たち振る舞いにせよ、広告・映像・写真・イラストにせよ、音楽そのものの価値を測る基準としては意味がない。その音楽についての知識のためには意味がある。 ようするに、意味あるか・ないか、どちらにも偏らない日和見主義だな。ははは。 音楽そのものは音楽を聴くことでしか判断できない。耳にあわない音楽は、その人にとってはつまらないものだ。たとえその曲が名曲であろうと、ヒット曲であろうと、珍しい価値があろうと、おもしろく心地よいものに思えなければ、聴く人にとって良いものではない。 音楽の情報は、音楽そのものに付随するもので、あえて分ける必要はない。しかし、良い曲と思えるものを人に薦めたいときには、仕掛け人はある戦略をとる。その戦略的な仕掛けによって、音楽と情報が結びついたり、逆に両者が分離したりする。 結局は、つまらない結論になってしまったのは、問いかけがつまらなかったからで、音楽に関する駄弁というものは、これほどまでに無益なものだという証拠になったということが、今回の収穫だった。 あえて野心的に書こうとすると、詮索だけして何も見つけ出せないまま、報告書を作成することになる。 埋蔵金を掘ることなんてものも、そのような

母子の絆

音楽は記述することが可能か?の結論を書こうとしたのだけど、それよりももっと新鮮な題材があらわれたので、今日はそちらを書く。 お昼の仕事はメッセンジャーなので、街をと走っていると、いろいろな場面にでくわす。今日は、ちとドラマティックなひとコマに遭遇できた。 とはいっても、人の生死にかかわる一大事だったわけで、できるなら遭遇したくはない出来事でもある。ことの顛末はこういうことだ。 夕方近くなって、ぼくもさすがに疲れてきて、それでなくても坂道の多い東京の都心部。大通りの横断歩道を渡り、その大通りを走ろうとして、交差点で目の前の信号が替わのるを待っていた。道路向かいの信号待ちのひとが数人ちらほらといたような気がする。 すると、ある女性が、とてもあわてた様子で道路向かいに声をかけていた。「ストップ!ストップ!動かないで!」。まずはそこにぼくの目がいった。ちょっと小走りしていたところを見ると、信号のそばには、はじめからはいなくて、声を張り上げながらやってきとことがわかる。 そこで、声をかけた方角を見ると、4〜5歳くらいぐらいの男の子が、大通りに交差する道に少しはみ出したところにいた。ぼくが大通りを横断できたということは、この交差する道は車の信号は青だということになる。少し前には、この男の子は見えなかったのだが、信号待ちをしている7〜8人の大人の間をすり抜けてきたのだろうか、しかも、車道に1mはみだしている。 誰もがあぶないと思ったのは、母親のさきほどの叫び声のためだった。道路向かいで、男の子から1m後ろで信号待ちしていた男性が、男の子を抱きかかえようと車道に出た瞬間、男の子が母親めがけて歩行者赤信号を渡りだした。小走りで母親めがけていく。男性は立ち止った。 車道は信号が青なので、車はスピードをだすし、そこは下りの坂道でスピードも出やすい。ちょうどそのときは、運悪く、ダンプカーが走ってきた。誰もが最悪の事態を想像した。 キキー!!! 男の子はそのまま小走りを続けて、道路向かいの母親のもとにたどり着けた。 幸運だったのは、ダンプの前に直前に飛び出さなかったこと。車高の高い運転席から小さい男の子がはっきり見えるくらいの距離があったこと。運転手がきちんと見ていたこと。 男の子は母親の胸で泣き出し、母親はきつく男の子を抱き締めていた。 ほっとしたのは、

音楽は記述することが可能か?(5)

はたしてどちらの意見を尊重すればよいのか? 音楽は音楽以外で語るべきでない、という意見と、音楽ですらことばを省いて無言になるのはよくない、という意見と。 同じように、演劇も、舞台の上で演劇という方法だけで表現するものと、演劇について語るものとの相克が問題意識にあがることもある。 スタニフラフスキーの書いた「俳優の仕事(俳優修業)」と「「芸術におけるわが生涯」は、演劇の読み物だし、「俳優のエチカ」なども論文に近いものがある。弟子たちの書いた稽古場の記録がスタニフラフスキーの演劇人としての姿をよく映し出しているのは皮肉だ。彼の仕事は、現場で俳優や学生を演出したことに集約されていて、それ以外の著書は、正当に比較するなら、彼の余技ぐらいの価値しかないのではないか? ならば、彼が演劇についておしゃべりしたことは、彼の活動に弱い光をあてるだけのもので、そこにどれほどの重要性があるのだろうか? 同じように、蜷川幸雄の著書でも、栗山民也の著書でも、ピーター・ブルックの著書でも、たしかにおもしろいが、それに勝る舞台との比較をするならば、どうしても舞台のほうを選んでしまうのではないか? ストレーレルも「演劇は語るものではない」という文章で、自分の舞台を語ることが、その舞台と無縁なものであることを承知しながら、文章を書いている自分を卑下してこう書いている。 「ときとしてわたしは、こんな思いにとらわれることがある。演劇を、演劇以外のかたちで報告することが不可能だというこの特殊性は、演劇が劣っているという判定、自己の劣等性の自認にほかならないのではないか、と。しかしこれは同時にまた、あのほとばしりでるような<演劇性>のあかしでもあるのではないか、と。この演劇性はそれ自身によってしか自己をときあかすことのできないものである。そしてこれこそが、<演劇>の使命である。」(ストレーレル「人間の演劇」) 世の中さまざまな職種があるように、演劇も音楽も、その表現方法の分野ではおのおのの独自の力が必要だが、それを書物や文字とするとなると、また別の才能が必要になる。文章を書く能力である。専門的な芸術家にそれを求めるのは酷であろう。ゴーストライターという職業もあることだし。 かといって、ことばで語ることを回避して、いわば秘儀化して、秘伝として特許化することも、あまりおもしろくない。

音楽は記述することが可能か?(4)

さてさて連載ものででもあるかのように、シリーズで書いているわけだが、ふりかえって少し明確にしておくところが必要だと思うので記しておく。 批評・評判・広告・宣伝・噂といった形の、創作者の外部からなされる記述と、創作者本人に求められる記述といったものの違いについて。もちろん創作者本人でさえも、後付けでさまざまな衣裳は着せられることがあるし、改作といった形で形を変えることもできる。そこらへんの区別については触れないことにしておく。 大事なのは、音楽なり、絵画なり、映画なり、演劇なりの芸術の特性的なもの・本質的なものか、それに付随する言述かという区別をつけること。 作品が一次的創造物とすると、その作品についての言述が二次的創造物であり、その二次的創造のことばというものが、はたして作品をどれほど豊かにできるか、反対にどれほど損なえるかということ、また、その二次的なことばでわれわれは何をどこまで表現できるかということを探ってみたい。 ふうぅ…堅苦しくなった… 前回は、ことばとの格闘というか、ことばとの交渉は必要なんじゃないかという結論で終わったのだが、それと反対のことも思ったりしているのだから、性質が悪いというのは承知でそちらの線の弁護もしたい。 さきほどの一次的、二次的な区分でいえば、たとえば音楽である限り、二次的な批評や言説は一次的な創造物にかなうものではない。これは分かり切ったことで、音楽が音楽についてのことばに負けるようであれば、音楽の存在価値がないのだ。音楽が音などを使って表現できることが、ことばによってできるのであれば音楽なんて必要ない。 音楽は音楽、音楽についての言説はことばの世界なので、まったく別の世界なのだ。ことばがどれほど発達しようが、音楽によって表現されたことで、すべてがひっくり返されるものなのだ。いわば、ことばなんてちっぽけなものだということ。 音楽なり映画なりが、目の前に現れて、現実のもの、生の具体的なものであるとすれば、ことばはあくまで抽象的なものなのだな。今日は雪だが、「雪」と書いて、連想するのは読み手の「雪」であり、書き手がどれほどの趣向と技術と具体性をこめて「雪」を説明しようが、読み手は自分勝手に「雪」のイメージを作ってしまう。 芸術が、ある意味で職人仕事だというのは、作品という具体的なものを提示するからであり、その

音楽は記述することが可能か?(3)

先日まで書き綴ってきたことから文脈が少しはずれるが、ある音楽家の言葉を引用してみたい。 「私は未だに、作曲家は言葉で語るべきではないのではないかと思ったりしている。だが反面、自分に与えられた発言の機会を充分に生かさないのは、芸術家として社会に対する責任を怠ることになるのではないか、とも思う」(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より) 同じ人はこうもいう。 「昨夜の時点では、徹夜で書いた原稿をここで読もうと思っていたのですけれども、今朝、練習に立ち会っているうちに、なぜか読む気がしなくなってきました。自分の考えを知っていただくには、結局、ぼくの音楽を聴いていただくのが最も端的だ、と思うようになったからですが、しかしそう言ってしまうには、ある後ろめたさがあり、そこに作曲家としての怠惰と傲慢を感じます」(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より) 音を作り出す当人が、自分への戒めのために、あえて饒舌に口を開く機会を作っている意志の表れであり、そこに、説明責任といった一般的に求められる義務というよりも、親切心よりも、芸術家としてのポリシーを感じる。 「さ、これを聞けば答えが書いてありますよ」「詳しくはホールに来てください」「CDを買ってください」といった投げやりなものでなく、たとえ音楽でさえも、言葉との交渉を通して語るという使命感。 もちろん、当人ならずとも、第三者がその音楽を語るには、音を通して語るものが一番重要なものだが、そこでコトバでもって音楽を記述するという行為を放棄するのは、怠慢なのではないか?確かに、音に付随するコトバが、音を裏切ることもあるし、誇張していたり・偽装していたりする類の、コトバの衣裳もある。コトバの過剰や氾濫は、テレビのテロップに表れていて、それはそれで愉快なものではないが、かといってコトバで語るという行為をやめ、無言になってしまうのも考えものなのだ。 ある意味、言語活動は社会的な行為であり、それがなくては音楽でも絵画でも映画でも、まるで登られたことのない秘峰であって、それは眺められ、崇められ、迷信となってありがたがられる。もしくは忘れ去られる。芸術が受け手の手元にきちんと届くには、コトバとの交渉が必須なのではないか? と、またまた、事が大きくなりそうで、収拾がつかなくなりそうで、次に回す。次は芸術という関連から、演劇が記述で

音楽は記述することが可能か?(2)

勢いにのって第二弾! 「バッハのイタリア協奏曲ってどんな曲だったっけ?」 「はい、これ」(楽譜を渡す) 「どんな曲だったっけ?」 「はい、これ」(CDを渡す) 「どんな曲だったっけ?」 「こんな曲よ。♪〜」(ハミングする) 「どんな曲だったっけ?」 「第一小節がフォルテに近い音から始まり…」(説明する) 「どんな曲だったっけ」 「ぼくの大好きな曲よ」(絶賛する) 何が一番効果的に、また分かりやすくその曲を伝えられるのだろうか? そんなことを書きながら、グールドの弾くバッハの「イタリア協奏曲」をCDで流す。音楽自体を聴いたことのある人なら、共有するものもあり、あるキーワードによってこちらの伝えたいことを伝達することができる。そのキーワードが伝達する側にも、される側にも共通しているというだけで、案外、別な曲を連想していたり、まったく個々の感受をしていたりする。 同じ曲を聞いたことがあるというのはまだいいほうで、聞いたことのない人にそれを伝えるとなると、ひと苦労する。ときには、相手の感受性をくすぐる方向で、説明を展開するし、曲そのものとはなんの関係もない自分の体験との連関を語ってみたり。そして、たいていそのような独自性のある説明のほうが印象に残るし、的を得ていたりするのはよくあることだ。 別に純粋主義ではないが、音楽が客観的に記述できるものなのか、批評ではないが、それを言い表す衣をかぶせることはできるのかという単純な疑問がどうしてもある。 歌詞のある歌ならその歌詞によって曲の一部、しかも大きな一部は表現できるのだが、「いかすぜベイビー!」「暗闇のおもちゃ〜」などという歌詞とは別次元で、洋楽ロックを聴いているのも事実なのだ。 歌詞は思い浮かばなくてもハミングできるのだし、たいていサビくらいしか覚えていないのだし。 ジャンルわけというのはよくされることであるが、まあ、あれは大ざっぱなものでしかない。ヘヴィメタルといういかつい名前のものだと、ひとくくりにしてしまい、それがブランド名になっていたりもするのだが、そのメタルの中でも、良い曲悪い曲があり、もちろんそれだけでは説明にならない。 そもそも音楽をコトバで説明すること自体ナンセンスなことなのか? (つづく…はず…)

音楽は記述することが可能か?(1)

今、武満徹のギター曲を聴いているのだが、ギターであるということ、彼の音楽を聴いていると彼独特のメロディがあるということはわかる。 周りにだれもいないにもかかわらず、もし、この曲の雰囲気を人に伝えなければならないとしたらどういう方法をとるだろうか?などと、休日的な発想をしている。 ♪を羅列するか? 文学的・描写的な方法をとるか? この曲を聴いて、自分はどう感じたかを言うか? ただ、「聴いてみろ」というか? そこでぼくは、音楽の記述という難問にぶつかった。はたして音楽というものは、それがその音楽そのものであるように記述するということが可能なのだろうか?このコトバを使えば、まさしくこの曲を指し示す、まさしくこの曲であると万人がわかるように説明することが可能なのだろうか?といういささか絶望的な問いを自分に課してみた。 なるほど、歌詞のついている曲は歌詞をそのまま記述したり、口にすることによって、その曲だと認識させることはできよう。しかし、それはあらかじめその曲に接する機会のあった人の記憶を呼び出すものであって、その曲に接したことの無い人には説明できない。歌詞を忘れている人、またその歌詞を音楽とは別なところで聞きかじった人には、音楽のメロディ、リズムなど説明できるものではない。 たとえばローリング・ストーンズと早坂文雄の音楽の違いを、その両者を知らない人に、コトバで説明して、分かってもらうこと、魅力を感じてもらうということが可能なのか?可能だとしても、それが純粋な音楽というものなのか?コトバによる説明でしかないのではないかという危惧なのである。 ここ最近履歴書を送る毎日を繰り返していることからそんな発想が生まれたのかもしれない。履歴書で人の説明はつくが、会って話してみないことにはその人自体を知ったことにはならない。周辺事情だけで人間が見えるものでないのは人事をする人はよくご存じだと思う。それほどひとりの人間は複雑なものなのだ。簡潔に要点をあげ、プロフィールを作るのは、遠回りしているにすぎないとすれば、これまた絶望的に、すべてを体験しなければ知ったことにはならないという命題にぶち当たる。 音楽を知るには、直接、その音楽を聴くこと、それが唯一の方法で、それしかありえないのか?また、文字による記述や言い伝えというものは付属的なものでしかないのか?とい

思い切って

捨てるもの、また使うもの、保留しておくもの、その判断の引き延ばしがこれまで積もりに積もっていた。物を惜しんでとっておく。物はたまる一方で、部屋にあふれていた。相変わらずの掃除ネタです。作業が遅いもんで… 整理をしながらも、まだ未練が残るものがあって、後々のために保留しておこうとする誘惑との戦い。使わないからといって捨てるに惜しいものもある。1%の未練があると、作業は保留・分別・保留・分別の繰り返しになる。整理作業でも、思い切ることは難しい。人生で、どれほどの思い切ったことをしたものだろうか? いきなり思い切って旅に出ようと決心したことが何度もある。決心した次の日に旅立ったこともある。何がそこまでぼくを奮い立たせたかといえば、それはきっと、その当時の煮詰まった状況がそうさせたのだと思う。部屋が散らかっていたこともあろう。恋愛に敗れたこともあろう。新しい仕事をしようと思ったのかもしれないし、新たな興味にひかれて行ったのかもしれない。とにかく外に出よう。今の現状をぶち破ろう。 中の居心地がよければ外に出ていかなかったとも限らない。その居心地の良さが物足りなさをを呼び起こすものなのか?暖かい部屋にしばらくいると、外の大雪も楽しく思えるほどの気持ちのゆとりが生まれる。そうして人は外に出る、旅に出る。その思いきりがゆとりから生まれるものだってあるのだ。 人が居場所を替えるとき、そのとき今までいた小さな世界はちっぽけなものに見えるであろうし、また、いとおしく思えるものかもしれない。 賽は投げられた。捨てるもの、また使うもの、保留しておくもの、またまた判断をしていかなければならないのだな。こればかりは一生つきまとうものだと覚悟した。