ちまたにニュースがあふれているが、メディアの側の取捨選択だけを頼りにすることは、一般の生活者だとしても怠惰と言わざるをえない。事件なり話題なりが生活に密着していようといまいと、ニュースから飛躍して、想像して、また生活に関連づけるような試みをしていかないと、メディアに飼いならされるのが落ちかもしれない。 イージス艦の衝突事故の問題。 事故の原因究明・防衛省の体質などが争点になっているが、その追及はもっともなもので不足はない。しかし、いったんその話題がお茶の間に乱入してきたときに、私たちが事故の事件性や自衛隊の問題としてだけとらえてしまうと、この事件は一過性のものとして忘れ去られていく。私たちの問題ではありながら、批判し、客観視することで、よそものとなっていく。 忘れ去られる危険性はそんな客観視した姿勢にあると、ぼくは思う。想像をしてみれば容易に身近な問題、人間の問題であって、単なる事件や官僚の問題でない。権力と横暴は身近にあると思うのだが。そこまで、自分の問題として、生活のレベルとして考えることをしないと、一過性の事件として多くのニュースに埋もれるにまかせるままになる。 要は、イージス艦が海上で行った不注意と意図しない横暴は、たとえば、陸上で日常茶飯事に行われている、自動車の横暴にほかならないと言いたいのだ。 横断歩道を猛スピードで、止まりもせずに突っ切る車。狭い生活道路をそこのけとばかりにクラクションを鳴らす車。一方通行だからと優先権を持ったかのように走る車。 そう、だれでもイージス艦になる可能性を持っているのだ。 どんなに善良な人間も、自動車に乗ると、歩行者を邪魔者扱いする事例を何度か見てきた。後方から別な車が煽るから急がざるをえず、車同士での論理でもって、乱暴に歩行者・自転車を押しのけていく。 小さい船がどけるだろうからというおごりは、見事に自動車にもあるのだ。確かに小回りの利かない車が堂々と横断歩道や道の真ん中にいたら、それを移動しろとはなかなかいえず、嫌々、歩行者が遠回りしたりよけたりする。 親切なドライバー、きちんと通行者の感受性を察して運転するドライバーもきちんといる。そういう運転手の存在の有無・多少を問うているのではない。 イージス艦の事件を海上の問題、大きな国家の問題として、生活者の視点から放り投げてしまう危険性が問題で