勢いにのって第二弾!
「バッハのイタリア協奏曲ってどんな曲だったっけ?」
「はい、これ」(楽譜を渡す)
「どんな曲だったっけ?」
「はい、これ」(CDを渡す)
「どんな曲だったっけ?」
「こんな曲よ。♪〜」(ハミングする)
「どんな曲だったっけ?」
「第一小節がフォルテに近い音から始まり…」(説明する)
「どんな曲だったっけ」
「ぼくの大好きな曲よ」(絶賛する)
何が一番効果的に、また分かりやすくその曲を伝えられるのだろうか?
そんなことを書きながら、グールドの弾くバッハの「イタリア協奏曲」をCDで流す。音楽自体を聴いたことのある人なら、共有するものもあり、あるキーワードによってこちらの伝えたいことを伝達することができる。そのキーワードが伝達する側にも、される側にも共通しているというだけで、案外、別な曲を連想していたり、まったく個々の感受をしていたりする。
同じ曲を聞いたことがあるというのはまだいいほうで、聞いたことのない人にそれを伝えるとなると、ひと苦労する。ときには、相手の感受性をくすぐる方向で、説明を展開するし、曲そのものとはなんの関係もない自分の体験との連関を語ってみたり。そして、たいていそのような独自性のある説明のほうが印象に残るし、的を得ていたりするのはよくあることだ。
別に純粋主義ではないが、音楽が客観的に記述できるものなのか、批評ではないが、それを言い表す衣をかぶせることはできるのかという単純な疑問がどうしてもある。
歌詞のある歌ならその歌詞によって曲の一部、しかも大きな一部は表現できるのだが、「いかすぜベイビー!」「暗闇のおもちゃ〜」などという歌詞とは別次元で、洋楽ロックを聴いているのも事実なのだ。
歌詞は思い浮かばなくてもハミングできるのだし、たいていサビくらいしか覚えていないのだし。
ジャンルわけというのはよくされることであるが、まあ、あれは大ざっぱなものでしかない。ヘヴィメタルといういかつい名前のものだと、ひとくくりにしてしまい、それがブランド名になっていたりもするのだが、そのメタルの中でも、良い曲悪い曲があり、もちろんそれだけでは説明にならない。
そもそも音楽をコトバで説明すること自体ナンセンスなことなのか?
(つづく…はず…)
「バッハのイタリア協奏曲ってどんな曲だったっけ?」
「はい、これ」(楽譜を渡す)
「どんな曲だったっけ?」
「はい、これ」(CDを渡す)
「どんな曲だったっけ?」
「こんな曲よ。♪〜」(ハミングする)
「どんな曲だったっけ?」
「第一小節がフォルテに近い音から始まり…」(説明する)
「どんな曲だったっけ」
「ぼくの大好きな曲よ」(絶賛する)
何が一番効果的に、また分かりやすくその曲を伝えられるのだろうか?
そんなことを書きながら、グールドの弾くバッハの「イタリア協奏曲」をCDで流す。音楽自体を聴いたことのある人なら、共有するものもあり、あるキーワードによってこちらの伝えたいことを伝達することができる。そのキーワードが伝達する側にも、される側にも共通しているというだけで、案外、別な曲を連想していたり、まったく個々の感受をしていたりする。
同じ曲を聞いたことがあるというのはまだいいほうで、聞いたことのない人にそれを伝えるとなると、ひと苦労する。ときには、相手の感受性をくすぐる方向で、説明を展開するし、曲そのものとはなんの関係もない自分の体験との連関を語ってみたり。そして、たいていそのような独自性のある説明のほうが印象に残るし、的を得ていたりするのはよくあることだ。
別に純粋主義ではないが、音楽が客観的に記述できるものなのか、批評ではないが、それを言い表す衣をかぶせることはできるのかという単純な疑問がどうしてもある。
歌詞のある歌ならその歌詞によって曲の一部、しかも大きな一部は表現できるのだが、「いかすぜベイビー!」「暗闇のおもちゃ〜」などという歌詞とは別次元で、洋楽ロックを聴いているのも事実なのだ。
歌詞は思い浮かばなくてもハミングできるのだし、たいていサビくらいしか覚えていないのだし。
ジャンルわけというのはよくされることであるが、まあ、あれは大ざっぱなものでしかない。ヘヴィメタルといういかつい名前のものだと、ひとくくりにしてしまい、それがブランド名になっていたりもするのだが、そのメタルの中でも、良い曲悪い曲があり、もちろんそれだけでは説明にならない。
そもそも音楽をコトバで説明すること自体ナンセンスなことなのか?
(つづく…はず…)
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