今、武満徹のギター曲を聴いているのだが、ギターであるということ、彼の音楽を聴いていると彼独特のメロディがあるということはわかる。
周りにだれもいないにもかかわらず、もし、この曲の雰囲気を人に伝えなければならないとしたらどういう方法をとるだろうか?などと、休日的な発想をしている。
♪を羅列するか?
文学的・描写的な方法をとるか?
この曲を聴いて、自分はどう感じたかを言うか?
ただ、「聴いてみろ」というか?
そこでぼくは、音楽の記述という難問にぶつかった。はたして音楽というものは、それがその音楽そのものであるように記述するということが可能なのだろうか?このコトバを使えば、まさしくこの曲を指し示す、まさしくこの曲であると万人がわかるように説明することが可能なのだろうか?といういささか絶望的な問いを自分に課してみた。
なるほど、歌詞のついている曲は歌詞をそのまま記述したり、口にすることによって、その曲だと認識させることはできよう。しかし、それはあらかじめその曲に接する機会のあった人の記憶を呼び出すものであって、その曲に接したことの無い人には説明できない。歌詞を忘れている人、またその歌詞を音楽とは別なところで聞きかじった人には、音楽のメロディ、リズムなど説明できるものではない。
たとえばローリング・ストーンズと早坂文雄の音楽の違いを、その両者を知らない人に、コトバで説明して、分かってもらうこと、魅力を感じてもらうということが可能なのか?可能だとしても、それが純粋な音楽というものなのか?コトバによる説明でしかないのではないかという危惧なのである。
ここ最近履歴書を送る毎日を繰り返していることからそんな発想が生まれたのかもしれない。履歴書で人の説明はつくが、会って話してみないことにはその人自体を知ったことにはならない。周辺事情だけで人間が見えるものでないのは人事をする人はよくご存じだと思う。それほどひとりの人間は複雑なものなのだ。簡潔に要点をあげ、プロフィールを作るのは、遠回りしているにすぎないとすれば、これまた絶望的に、すべてを体験しなければ知ったことにはならないという命題にぶち当たる。
音楽を知るには、直接、その音楽を聴くこと、それが唯一の方法で、それしかありえないのか?また、文字による記述や言い伝えというものは付属的なものでしかないのか?といったら、その付属的なものに取り囲まれて、あたかも本物のように満足している行為というものはむなしいことなのか?そして、いい音楽を聴いても「ほら、君も聴いてみるがよいよ」「ぼくには説明できないけどね」という言い方で満足するしか仕方がないのか?
…
ちょっと壮大に問いを立てすぎた。これじゃ論文だな。ま、長くなりすぎるのは好まないことなので、おいおい書き綴るということにして今日はやめておく。
周りにだれもいないにもかかわらず、もし、この曲の雰囲気を人に伝えなければならないとしたらどういう方法をとるだろうか?などと、休日的な発想をしている。
♪を羅列するか?
文学的・描写的な方法をとるか?
この曲を聴いて、自分はどう感じたかを言うか?
ただ、「聴いてみろ」というか?
そこでぼくは、音楽の記述という難問にぶつかった。はたして音楽というものは、それがその音楽そのものであるように記述するということが可能なのだろうか?このコトバを使えば、まさしくこの曲を指し示す、まさしくこの曲であると万人がわかるように説明することが可能なのだろうか?といういささか絶望的な問いを自分に課してみた。
なるほど、歌詞のついている曲は歌詞をそのまま記述したり、口にすることによって、その曲だと認識させることはできよう。しかし、それはあらかじめその曲に接する機会のあった人の記憶を呼び出すものであって、その曲に接したことの無い人には説明できない。歌詞を忘れている人、またその歌詞を音楽とは別なところで聞きかじった人には、音楽のメロディ、リズムなど説明できるものではない。
たとえばローリング・ストーンズと早坂文雄の音楽の違いを、その両者を知らない人に、コトバで説明して、分かってもらうこと、魅力を感じてもらうということが可能なのか?可能だとしても、それが純粋な音楽というものなのか?コトバによる説明でしかないのではないかという危惧なのである。
ここ最近履歴書を送る毎日を繰り返していることからそんな発想が生まれたのかもしれない。履歴書で人の説明はつくが、会って話してみないことにはその人自体を知ったことにはならない。周辺事情だけで人間が見えるものでないのは人事をする人はよくご存じだと思う。それほどひとりの人間は複雑なものなのだ。簡潔に要点をあげ、プロフィールを作るのは、遠回りしているにすぎないとすれば、これまた絶望的に、すべてを体験しなければ知ったことにはならないという命題にぶち当たる。
音楽を知るには、直接、その音楽を聴くこと、それが唯一の方法で、それしかありえないのか?また、文字による記述や言い伝えというものは付属的なものでしかないのか?といったら、その付属的なものに取り囲まれて、あたかも本物のように満足している行為というものはむなしいことなのか?そして、いい音楽を聴いても「ほら、君も聴いてみるがよいよ」「ぼくには説明できないけどね」という言い方で満足するしか仕方がないのか?
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ちょっと壮大に問いを立てすぎた。これじゃ論文だな。ま、長くなりすぎるのは好まないことなので、おいおい書き綴るということにして今日はやめておく。
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