音楽は記述できるか、という問いかけをずっとしてきたわけだが、今になって気づいたことは、もともとのこの問いかけ自体が意味をなすものなのかという疑問である。
命題がずれていたら答えもずれる。良くない質問には答えようがない。
とはいっても、ずっと書き続けてきたことの締めくくりは必要なわけで、だから、これは失敗の記録として締めくくりたいと思う。
もともとの問いのたて方が、「音楽は記述することに意味をもつのか?」であったなら答えることもできたと思う。なぜなら、音楽が音楽である限り、文字を使って記述したのなら、それは、音楽そのものでなく、音楽について書いたことにほかならない。それは自明なことで、そこに問いを投げかけると、言語哲学などの領域になってしまい、そこにぼくは興味がない。
ならば、記述できるかできないかを問うよりも、記述することでどれほどの意味をもつものなのかを探ったほうが、生産的に思えるのだ。
ま、また回りくどくなってしまったので、意味があるかないか結論を言おう。
音楽そのものでなく、その音楽の周辺情報は、音楽家のことばにせよ、文章にせよ、たち振る舞いにせよ、広告・映像・写真・イラストにせよ、音楽そのものの価値を測る基準としては意味がない。その音楽についての知識のためには意味がある。
ようするに、意味あるか・ないか、どちらにも偏らない日和見主義だな。ははは。
音楽そのものは音楽を聴くことでしか判断できない。耳にあわない音楽は、その人にとってはつまらないものだ。たとえその曲が名曲であろうと、ヒット曲であろうと、珍しい価値があろうと、おもしろく心地よいものに思えなければ、聴く人にとって良いものではない。
音楽の情報は、音楽そのものに付随するもので、あえて分ける必要はない。しかし、良い曲と思えるものを人に薦めたいときには、仕掛け人はある戦略をとる。その戦略的な仕掛けによって、音楽と情報が結びついたり、逆に両者が分離したりする。
結局は、つまらない結論になってしまったのは、問いかけがつまらなかったからで、音楽に関する駄弁というものは、これほどまでに無益なものだという証拠になったということが、今回の収穫だった。
あえて野心的に書こうとすると、詮索だけして何も見つけ出せないまま、報告書を作成することになる。
埋蔵金を掘ることなんてものも、そのようなものだな。掘るだけ掘って、放ったらかし。
いやあ、勉強になりました。
命題がずれていたら答えもずれる。良くない質問には答えようがない。
とはいっても、ずっと書き続けてきたことの締めくくりは必要なわけで、だから、これは失敗の記録として締めくくりたいと思う。
もともとの問いのたて方が、「音楽は記述することに意味をもつのか?」であったなら答えることもできたと思う。なぜなら、音楽が音楽である限り、文字を使って記述したのなら、それは、音楽そのものでなく、音楽について書いたことにほかならない。それは自明なことで、そこに問いを投げかけると、言語哲学などの領域になってしまい、そこにぼくは興味がない。
ならば、記述できるかできないかを問うよりも、記述することでどれほどの意味をもつものなのかを探ったほうが、生産的に思えるのだ。
ま、また回りくどくなってしまったので、意味があるかないか結論を言おう。
音楽そのものでなく、その音楽の周辺情報は、音楽家のことばにせよ、文章にせよ、たち振る舞いにせよ、広告・映像・写真・イラストにせよ、音楽そのものの価値を測る基準としては意味がない。その音楽についての知識のためには意味がある。
ようするに、意味あるか・ないか、どちらにも偏らない日和見主義だな。ははは。
音楽そのものは音楽を聴くことでしか判断できない。耳にあわない音楽は、その人にとってはつまらないものだ。たとえその曲が名曲であろうと、ヒット曲であろうと、珍しい価値があろうと、おもしろく心地よいものに思えなければ、聴く人にとって良いものではない。
音楽の情報は、音楽そのものに付随するもので、あえて分ける必要はない。しかし、良い曲と思えるものを人に薦めたいときには、仕掛け人はある戦略をとる。その戦略的な仕掛けによって、音楽と情報が結びついたり、逆に両者が分離したりする。
結局は、つまらない結論になってしまったのは、問いかけがつまらなかったからで、音楽に関する駄弁というものは、これほどまでに無益なものだという証拠になったということが、今回の収穫だった。
あえて野心的に書こうとすると、詮索だけして何も見つけ出せないまま、報告書を作成することになる。
埋蔵金を掘ることなんてものも、そのようなものだな。掘るだけ掘って、放ったらかし。
いやあ、勉強になりました。
コメント
コメントを投稿