さてさて連載ものででもあるかのように、シリーズで書いているわけだが、ふりかえって少し明確にしておくところが必要だと思うので記しておく。
批評・評判・広告・宣伝・噂といった形の、創作者の外部からなされる記述と、創作者本人に求められる記述といったものの違いについて。もちろん創作者本人でさえも、後付けでさまざまな衣裳は着せられることがあるし、改作といった形で形を変えることもできる。そこらへんの区別については触れないことにしておく。
大事なのは、音楽なり、絵画なり、映画なり、演劇なりの芸術の特性的なもの・本質的なものか、それに付随する言述かという区別をつけること。
作品が一次的創造物とすると、その作品についての言述が二次的創造物であり、その二次的創造のことばというものが、はたして作品をどれほど豊かにできるか、反対にどれほど損なえるかということ、また、その二次的なことばでわれわれは何をどこまで表現できるかということを探ってみたい。
ふうぅ…堅苦しくなった…
前回は、ことばとの格闘というか、ことばとの交渉は必要なんじゃないかという結論で終わったのだが、それと反対のことも思ったりしているのだから、性質が悪いというのは承知でそちらの線の弁護もしたい。
さきほどの一次的、二次的な区分でいえば、たとえば音楽である限り、二次的な批評や言説は一次的な創造物にかなうものではない。これは分かり切ったことで、音楽が音楽についてのことばに負けるようであれば、音楽の存在価値がないのだ。音楽が音などを使って表現できることが、ことばによってできるのであれば音楽なんて必要ない。
音楽は音楽、音楽についての言説はことばの世界なので、まったく別の世界なのだ。ことばがどれほど発達しようが、音楽によって表現されたことで、すべてがひっくり返されるものなのだ。いわば、ことばなんてちっぽけなものだということ。
音楽なり映画なりが、目の前に現れて、現実のもの、生の具体的なものであるとすれば、ことばはあくまで抽象的なものなのだな。今日は雪だが、「雪」と書いて、連想するのは読み手の「雪」であり、書き手がどれほどの趣向と技術と具体性をこめて「雪」を説明しようが、読み手は自分勝手に「雪」のイメージを作ってしまう。
芸術が、ある意味で職人仕事だというのは、作品という具体的なものを提示するからであり、その作品がことばで文字化しないためであろう。
ことばでよく語れる俳優がいるものだ。それは分ったから、舞台にあがってやってみようじゃないかと思うことがあるのだが、俳優の仕事の大部分は演じることであり、自分の体で具体的なものを提示することなのだ。スポーツでもそうだろうが、結果をだせないとき、ことばがいくら多くても虚しいものなのだ。
また、ことばが命の批評が、的確に表現されていなかったり、陳腐な表現になっていたりすることもある。また、本質をついていなかったり、嘘を塗りたくられていたりもする。こんなとき、早く一次的な作品に戻りたくなるものだ。おしゃべりはやめて、聴けよと。見ろよと。
批評・評判・広告・宣伝・噂といった形の、創作者の外部からなされる記述と、創作者本人に求められる記述といったものの違いについて。もちろん創作者本人でさえも、後付けでさまざまな衣裳は着せられることがあるし、改作といった形で形を変えることもできる。そこらへんの区別については触れないことにしておく。
大事なのは、音楽なり、絵画なり、映画なり、演劇なりの芸術の特性的なもの・本質的なものか、それに付随する言述かという区別をつけること。
作品が一次的創造物とすると、その作品についての言述が二次的創造物であり、その二次的創造のことばというものが、はたして作品をどれほど豊かにできるか、反対にどれほど損なえるかということ、また、その二次的なことばでわれわれは何をどこまで表現できるかということを探ってみたい。
ふうぅ…堅苦しくなった…
前回は、ことばとの格闘というか、ことばとの交渉は必要なんじゃないかという結論で終わったのだが、それと反対のことも思ったりしているのだから、性質が悪いというのは承知でそちらの線の弁護もしたい。
さきほどの一次的、二次的な区分でいえば、たとえば音楽である限り、二次的な批評や言説は一次的な創造物にかなうものではない。これは分かり切ったことで、音楽が音楽についてのことばに負けるようであれば、音楽の存在価値がないのだ。音楽が音などを使って表現できることが、ことばによってできるのであれば音楽なんて必要ない。
音楽は音楽、音楽についての言説はことばの世界なので、まったく別の世界なのだ。ことばがどれほど発達しようが、音楽によって表現されたことで、すべてがひっくり返されるものなのだ。いわば、ことばなんてちっぽけなものだということ。
音楽なり映画なりが、目の前に現れて、現実のもの、生の具体的なものであるとすれば、ことばはあくまで抽象的なものなのだな。今日は雪だが、「雪」と書いて、連想するのは読み手の「雪」であり、書き手がどれほどの趣向と技術と具体性をこめて「雪」を説明しようが、読み手は自分勝手に「雪」のイメージを作ってしまう。
芸術が、ある意味で職人仕事だというのは、作品という具体的なものを提示するからであり、その作品がことばで文字化しないためであろう。
ことばでよく語れる俳優がいるものだ。それは分ったから、舞台にあがってやってみようじゃないかと思うことがあるのだが、俳優の仕事の大部分は演じることであり、自分の体で具体的なものを提示することなのだ。スポーツでもそうだろうが、結果をだせないとき、ことばがいくら多くても虚しいものなのだ。
また、ことばが命の批評が、的確に表現されていなかったり、陳腐な表現になっていたりすることもある。また、本質をついていなかったり、嘘を塗りたくられていたりもする。こんなとき、早く一次的な作品に戻りたくなるものだ。おしゃべりはやめて、聴けよと。見ろよと。
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