先日まで書き綴ってきたことから文脈が少しはずれるが、ある音楽家の言葉を引用してみたい。
「私は未だに、作曲家は言葉で語るべきではないのではないかと思ったりしている。だが反面、自分に与えられた発言の機会を充分に生かさないのは、芸術家として社会に対する責任を怠ることになるのではないか、とも思う」(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より)
同じ人はこうもいう。
「昨夜の時点では、徹夜で書いた原稿をここで読もうと思っていたのですけれども、今朝、練習に立ち会っているうちに、なぜか読む気がしなくなってきました。自分の考えを知っていただくには、結局、ぼくの音楽を聴いていただくのが最も端的だ、と思うようになったからですが、しかしそう言ってしまうには、ある後ろめたさがあり、そこに作曲家としての怠惰と傲慢を感じます」(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より)
音を作り出す当人が、自分への戒めのために、あえて饒舌に口を開く機会を作っている意志の表れであり、そこに、説明責任といった一般的に求められる義務というよりも、親切心よりも、芸術家としてのポリシーを感じる。
「さ、これを聞けば答えが書いてありますよ」「詳しくはホールに来てください」「CDを買ってください」といった投げやりなものでなく、たとえ音楽でさえも、言葉との交渉を通して語るという使命感。
もちろん、当人ならずとも、第三者がその音楽を語るには、音を通して語るものが一番重要なものだが、そこでコトバでもって音楽を記述するという行為を放棄するのは、怠慢なのではないか?確かに、音に付随するコトバが、音を裏切ることもあるし、誇張していたり・偽装していたりする類の、コトバの衣裳もある。コトバの過剰や氾濫は、テレビのテロップに表れていて、それはそれで愉快なものではないが、かといってコトバで語るという行為をやめ、無言になってしまうのも考えものなのだ。
ある意味、言語活動は社会的な行為であり、それがなくては音楽でも絵画でも映画でも、まるで登られたことのない秘峰であって、それは眺められ、崇められ、迷信となってありがたがられる。もしくは忘れ去られる。芸術が受け手の手元にきちんと届くには、コトバとの交渉が必須なのではないか?
と、またまた、事が大きくなりそうで、収拾がつかなくなりそうで、次に回す。次は芸術という関連から、演劇が記述できるかということも語ってみたい。
「私は未だに、作曲家は言葉で語るべきではないのではないかと思ったりしている。だが反面、自分に与えられた発言の機会を充分に生かさないのは、芸術家として社会に対する責任を怠ることになるのではないか、とも思う」(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より)
同じ人はこうもいう。
「昨夜の時点では、徹夜で書いた原稿をここで読もうと思っていたのですけれども、今朝、練習に立ち会っているうちに、なぜか読む気がしなくなってきました。自分の考えを知っていただくには、結局、ぼくの音楽を聴いていただくのが最も端的だ、と思うようになったからですが、しかしそう言ってしまうには、ある後ろめたさがあり、そこに作曲家としての怠惰と傲慢を感じます」(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より)
音を作り出す当人が、自分への戒めのために、あえて饒舌に口を開く機会を作っている意志の表れであり、そこに、説明責任といった一般的に求められる義務というよりも、親切心よりも、芸術家としてのポリシーを感じる。
「さ、これを聞けば答えが書いてありますよ」「詳しくはホールに来てください」「CDを買ってください」といった投げやりなものでなく、たとえ音楽でさえも、言葉との交渉を通して語るという使命感。
もちろん、当人ならずとも、第三者がその音楽を語るには、音を通して語るものが一番重要なものだが、そこでコトバでもって音楽を記述するという行為を放棄するのは、怠慢なのではないか?確かに、音に付随するコトバが、音を裏切ることもあるし、誇張していたり・偽装していたりする類の、コトバの衣裳もある。コトバの過剰や氾濫は、テレビのテロップに表れていて、それはそれで愉快なものではないが、かといってコトバで語るという行為をやめ、無言になってしまうのも考えものなのだ。
ある意味、言語活動は社会的な行為であり、それがなくては音楽でも絵画でも映画でも、まるで登られたことのない秘峰であって、それは眺められ、崇められ、迷信となってありがたがられる。もしくは忘れ去られる。芸術が受け手の手元にきちんと届くには、コトバとの交渉が必須なのではないか?
と、またまた、事が大きくなりそうで、収拾がつかなくなりそうで、次に回す。次は芸術という関連から、演劇が記述できるかということも語ってみたい。
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