はたしてどちらの意見を尊重すればよいのか?
音楽は音楽以外で語るべきでない、という意見と、音楽ですらことばを省いて無言になるのはよくない、という意見と。
同じように、演劇も、舞台の上で演劇という方法だけで表現するものと、演劇について語るものとの相克が問題意識にあがることもある。
スタニフラフスキーの書いた「俳優の仕事(俳優修業)」と「「芸術におけるわが生涯」は、演劇の読み物だし、「俳優のエチカ」なども論文に近いものがある。弟子たちの書いた稽古場の記録がスタニフラフスキーの演劇人としての姿をよく映し出しているのは皮肉だ。彼の仕事は、現場で俳優や学生を演出したことに集約されていて、それ以外の著書は、正当に比較するなら、彼の余技ぐらいの価値しかないのではないか?
ならば、彼が演劇についておしゃべりしたことは、彼の活動に弱い光をあてるだけのもので、そこにどれほどの重要性があるのだろうか?
同じように、蜷川幸雄の著書でも、栗山民也の著書でも、ピーター・ブルックの著書でも、たしかにおもしろいが、それに勝る舞台との比較をするならば、どうしても舞台のほうを選んでしまうのではないか?
ストレーレルも「演劇は語るものではない」という文章で、自分の舞台を語ることが、その舞台と無縁なものであることを承知しながら、文章を書いている自分を卑下してこう書いている。
「ときとしてわたしは、こんな思いにとらわれることがある。演劇を、演劇以外のかたちで報告することが不可能だというこの特殊性は、演劇が劣っているという判定、自己の劣等性の自認にほかならないのではないか、と。しかしこれは同時にまた、あのほとばしりでるような<演劇性>のあかしでもあるのではないか、と。この演劇性はそれ自身によってしか自己をときあかすことのできないものである。そしてこれこそが、<演劇>の使命である。」(ストレーレル「人間の演劇」)
世の中さまざまな職種があるように、演劇も音楽も、その表現方法の分野ではおのおのの独自の力が必要だが、それを書物や文字とするとなると、また別の才能が必要になる。文章を書く能力である。専門的な芸術家にそれを求めるのは酷であろう。ゴーストライターという職業もあることだし。
かといって、ことばで語ることを回避して、いわば秘儀化して、秘伝として特許化することも、あまりおもしろくない。その芸術に近づく可能性を奪われるからだ。音楽にせよ、演劇にせよ、誰かを自分のもとに引き寄せるため、コミュニケートするために、そういう手段を使っているのだから。
あえてまとめる必要はないのだが、ここまで書いてきたので、とりあえずの結論を次の機会に述べたいと思う。まとまるかな…
音楽は音楽以外で語るべきでない、という意見と、音楽ですらことばを省いて無言になるのはよくない、という意見と。
同じように、演劇も、舞台の上で演劇という方法だけで表現するものと、演劇について語るものとの相克が問題意識にあがることもある。
スタニフラフスキーの書いた「俳優の仕事(俳優修業)」と「「芸術におけるわが生涯」は、演劇の読み物だし、「俳優のエチカ」なども論文に近いものがある。弟子たちの書いた稽古場の記録がスタニフラフスキーの演劇人としての姿をよく映し出しているのは皮肉だ。彼の仕事は、現場で俳優や学生を演出したことに集約されていて、それ以外の著書は、正当に比較するなら、彼の余技ぐらいの価値しかないのではないか?
ならば、彼が演劇についておしゃべりしたことは、彼の活動に弱い光をあてるだけのもので、そこにどれほどの重要性があるのだろうか?
同じように、蜷川幸雄の著書でも、栗山民也の著書でも、ピーター・ブルックの著書でも、たしかにおもしろいが、それに勝る舞台との比較をするならば、どうしても舞台のほうを選んでしまうのではないか?
ストレーレルも「演劇は語るものではない」という文章で、自分の舞台を語ることが、その舞台と無縁なものであることを承知しながら、文章を書いている自分を卑下してこう書いている。
「ときとしてわたしは、こんな思いにとらわれることがある。演劇を、演劇以外のかたちで報告することが不可能だというこの特殊性は、演劇が劣っているという判定、自己の劣等性の自認にほかならないのではないか、と。しかしこれは同時にまた、あのほとばしりでるような<演劇性>のあかしでもあるのではないか、と。この演劇性はそれ自身によってしか自己をときあかすことのできないものである。そしてこれこそが、<演劇>の使命である。」(ストレーレル「人間の演劇」)
世の中さまざまな職種があるように、演劇も音楽も、その表現方法の分野ではおのおのの独自の力が必要だが、それを書物や文字とするとなると、また別の才能が必要になる。文章を書く能力である。専門的な芸術家にそれを求めるのは酷であろう。ゴーストライターという職業もあることだし。
かといって、ことばで語ることを回避して、いわば秘儀化して、秘伝として特許化することも、あまりおもしろくない。その芸術に近づく可能性を奪われるからだ。音楽にせよ、演劇にせよ、誰かを自分のもとに引き寄せるため、コミュニケートするために、そういう手段を使っているのだから。
あえてまとめる必要はないのだが、ここまで書いてきたので、とりあえずの結論を次の機会に述べたいと思う。まとまるかな…
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