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父と暮らせば

「こんどいつきてくれんさるの?」 「おまい次第じゃ」 「しばらく会えんかもしれないね」 こういうやりとりの後、竹造は美津江のそばを離れていきます。 井上ひさし 『 父と暮せば 』の最後の場面です。 美津江の中では、幸せになってはいけないと思う自分と、幸せになりたい自分が戦っています。戦火から生き永らえたため、原爆で亡くなった人に後ろめたいと思う気持ちが邪魔をして、自分が恋をしているのを必死に否定しています。 そんなとき、原爆で亡くなったはず美津江の父親が出現してきて、この物語が進行していきます。 甘酸っぱい恋をするときに、人はよくこころの支えになるような何かが必要になります、あるひとつの曲であったり、匂いであったり。そして音楽や匂いが必要になり、十分な役割を果たした後に、それらはさも何ごともなかったように記憶から消え去っていきます。 あの大震災のときに、誰からともなく支援と行動が湧きだしてきて、何かしらの役に立った後に、人はまたそれぞれの日常生活に戻っていったように。 竹造は自分で言うように、そんな「応援団長」です。そばにいて励まして背中を押しながら、叱咤激励をしてくれます。それが父親であろうと、恋人であろうと、友人であろうと構わないもので、またこの作品のように、生きている人でなくてもいいのかもしれません。葛藤が解消し、用が済めば、父親は去っていくしかありません。 美津江が重大な葛藤を抱えながら恋をしている局面で、死んだはずの父が出現し、娘を救い去っていく。こういった英雄譚のようなメタファーは、考えてみたら、時代劇とかドラマとかで頻繁に見られるような王道パターンでもあります。 その時代の人たちがいろいろな葛藤や迷いや悩みを持って格闘しているときに、物語やメッセージやメロディがそばに近づいてきて励ましてくれる、そして時代が過ぎると、過去の思い出になってしまい、記憶の片隅に残るだけになります。 背中を押して助言を与えてくれたり、そばにいて道を指し示してくれるような演劇や音楽・本などにまた巡り会うような予感がしないでもない、きょうこの頃。危機なんでしょうかね。笑。 小津安二郎「父ありき」 ※上の写真はこの文章に何の関係もありません。 なんとなく竹造は 笠智衆 っぽい顔をしているんじゃないかと思っただけという。 ...

エミリー・ディキンソンの詩

あけましておめでとうございます。 不定期でいつ更新されるかわからないブログではありますが、ちょっとずつ更新しようかななんて思っています。 演劇の公演も終わり、また瞑想・迷走・(名僧?)の時期がやってきました。この冬を乗り切るには、いろんな薪をたくわえておかなければなりませんね。勉強あるのみ。知らないこと・初めて見ることなどに新鮮な気持ちで向き合いたいものです。 というわけで、またいろんな本を読んでみようと企んでおります。 いくつか気になる作家の作品を読もうと思って、まず急にひらめいたのが詩を読むこと。大学生のときは詩ばかり読んでいたような気もします。自分で詩も書いて、出版して印刷し、近い人10人くらいに配布した恥ずかしい思い出もあります。なんであんなことしたんだろ? 前々から好きな短詩というジャンル ♪ ♪ ♪ もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら 私の生きるのは無駄でない もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ 一人の苦痛をさますことができるなら 気を失った駒鳥を 巣にもどすことができるなら 私の生きるのは無駄ではない ♪ ♪ ♪ エミリー・デキィンソン(中島完/訳) こちらの本から抜粋「 自然と愛と孤独と エミリー・デキィンソン詩集 」国文社 エミリー・デキィンソンは19世紀のアメリカの女流詩人です。すてきな詩を残しています。 参考に ウィキペディア 紹介したブログもあります。 いやしの本棚 。 しばらくディキンソンに取り組んでいこうかなと思っております( ˘ ?˘)? で、おそらく同時並行してプラトンあたり… 吸収吸収、勉強勉強。 がががががあ・・・

文章について

今さらながらに思うのは、正確に物を伝えるというのは難しいということだ。 正確であろうとすれば冗長であったり、手短に述べると情報が漏れていたり。 図を使って説明していたとしても、その図が曖昧であったり。 一枚の書類を渡された。それは、ある注意事項だったのだが、分かりにくい文章だった。口頭で伝えられて覚えてきたことを、改めて書面で伝えられると、さて、どちらが正しいのかな、なんて思うことになる。 注意書きが実際の現物と正確に一致していない。例えば、その券には○○が書いてあるとただし書きしてあるのに、実物にはその○○という文字は印字されていないといったように。 また、この場合はこうしてくださいというマニュアルが曖昧で、じゃあどうすればいいの?なんて思ってしまうような書き方。たとえば、この券をもらったら、本当はダメだけど「受け入れてください」といった書き方だな。「受け入れる」というのが、どういう行動をすれば正しいのかの基準にならない。 句読点や、かぎカッコひとつでも、分かりにくくなるものだ。 また、自分たちの文脈が、他人の文脈に通じるかという問題もある。業界用語なんて、その最たるものだな。 あえて含みを持たせて考えさせる場合を除いて、伝えたいのに伝わらないのはもどかしい。しかも、文章の場合、一度それを書いて公表すれば、あとで付け足すという機会がそうそうあるわけではない。 文章の書き方の本をいくつか読み、今日から、丸谷才一の「文章読本」を読み始めている。そんなときにもらった文章。理解できないところを理解したつもりにせず、また、類推もせず、分かりにくい文章を分からないと宣言するのも楽しいものだ。分かるようにするためには、どう書けばいいのかも考える。 それにしても、ものを伝えるのは難しい。ぼくなんか、誤解されるような言い回しも多用して、誤解されるがままにしておくのを楽しむほうだから、案外ぼくが真剣に説明したことも伝わっていないのかもな。そう考えると、何一つ伝わっていないのに、すべてを伝えたつもりでいる自分というものは、おかしなものだ。 また、冗談の話が本気で受け取られるのもおかしな話だな。 実直なコミュニケーションなんて絶望的に不可能なのかもな。

世界の開化

15年ぶりになるだろうか、夏目漱石の「私の個人主義」を再読してみた。一読して思ったのは、内容が講演のためでもあろうが、非常に論理的で分かりやすい文章だということ。話に淀みもないし、比喩の対象も効果も明晰だし、何より簡潔な言葉を使って学生に話しかけている。そして話者である漱石の一番伝えたいことが明確で、漱石の精神・思想がうかがえるような内容になっている。ここまで論旨が明快な文章というのはなかなか見かけるものではない。 講演は聴衆が理解して初めて意味をもつ。漱石の好きな落語もそうだ。演劇も例外ではない。これらに共通するのは、その場にいる聴衆・お客さんに分かってもらうことが第一の基本にあることであろうか。後世に誰かが理解してくれようといった悠長な考えではいけないこと。 分かってもらうこと、こちらの考え・計画を理解してもらうことは、とても難しい。だいたいにして、自分がほかの人のことばの意味を受け取り、理解しているとは、必ずしもいえないのだから。聞き流すことのほうが多いだろうか。好意を持っている人のことばは、過剰に聞き入れようとしてかえって本意を理解しているとはいえない。家族などの身近な人のことばなんて、半分以上は聞き流しても想像がつく。 漱石のこの本を再読した後の感想は、何だか目の前の世界が開けたような気がしたのだが、人の言うこと・考え・意志をはっきりと理解できたときは、いつもこんな感想を持つな。つまり、明快に理解するということは、世界を開くことなのだろうか。逆な立場で言うと、世界を開かせるために、ことばを使い分かってもらおうとする。講演の講師も、落語家も、芸能の実演者も。 小難しい数式を解いたときもそんな「開化」を感じた。今まで苦闘していた俳優がいきなり変身し「開化」することが稽古の過程ではよくある。賞味1時間の漱石の講演で、自分の人生の一歩を踏み出した人間がいるであろう。そういった講演とは種類は違うが、演劇の公演だってひとりの人生を「開化」させるのに事足りないことなんてない。 願わくば多くの人を「開化」させたいと思い、練りに練り、簡潔であること、明快であること、率直なものであること、親しみやすいものにすることを心掛ける演劇も悪くはあるまい。単に娯楽でなく、もっと社会性を帯びたものが、もともとの演劇に必要とされていたものであるから。

ふと我に帰る

人にはそれぞれの顔があるように、人それぞれの考え・思想というものもある。同じ事件を見ても感じることは違うだろうし、気づくことも、観察するところも千差万別だ。 それなのにどうして、ひとつかふたつの意見に早々と集約されるものなのか? 要するに賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかと、簡単に結論づけてしまうものなのだろうか? 人間の思考が複雑なものを単純化して記憶し、整理するものだからか? 一般的な意見に沿うのが安心だからか? そもそも人間みな同じようなことを考えているからだろうか? ある作家の小説を読むときに、ある視点・ある視角というものが、読者によりはっきりと明快に分かるときに、その小説がよりわかるのであり、その視点に共感できるからこそ、それを愛読する。 一般的な視点で書かれたジャーナリズム的な小説には魅力を感じにくいものだ。 ならば作家というものは、物事を単純化する一歩手前で立ち止まり、作家個人のフィルターを通してものを書くのだろうか? 賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかを、結論づけてしまう前に「わたし」のところで一呼吸し、「わたし」を探る。そうして探り当て出てきたものは、同じ「賛成」でも同じ「反対」でも、一般的な「賛成」「反対」とは違ってくる。 もちろん通常だれでも同じことをしているが、作家はより慎重に、より懐疑的にそれを行う気がしてならない。 映画の名作と呼ばれる『東京物語』(野田高悟、小津安二郎作)は、脚本からして豊かに、また明快にできている。そのテーマを声高にではなく、しかし着実に語っている。それが二人がとった視点から語られる物語だからこそ、そしておそらくは、その視点から思い切って描いたからこそ、名作なのだ。 『悪魔を憐れむ歌』(ゴダール監督、出演ローリング・ストーンズ)も、奇抜なドキュメンタリーでありながら、ゴダールの見る目が感じとれた。あえてそこからしか見ようとしない、そしてそこから見させる意志が汲みとれた。 早急に結論を出すことの一歩手前で立ち止まり、ある意味戦術的に自分の視点を確保してみようか。どうせ、結論自体たいていは陳腐だったり、ころころ変わりやすいほどのものなのだから。そして、人は多かれ少なかれ自分の出した(と考えている)意見や結論に固執してしまう頑迷さを持っているから、自分で自分を縛りつける一歩手前で...

ふたつの作品

さてさて、明日からふたつの仕事に復帰するが、今年の目標は、部屋をちらかさないこと。そして、戯曲やシナリオを読んで研究すること。 というわけで、立て続けにシナリオを読んでみたわけだが、やはり、橋本忍・黒澤明の『羅生門』は、おもしろく読めた。淀みがないというか、停滞がないというか。過去の回想を逆手にとった構成だから、報告という叙述方法をとるので、ことばだけの観念的なものになりがちだが、そうでなく、登場人物がとても行動的に描かれているために、生き生きと人物が見えてくる。前に一二度映画は見たことがあったが、それ以上のおもしろさかもしれない。 真山青果の戯曲『唐人お吉』もよかった。特に一幕から三幕までが、テンポよく流れていた。真山青果とはもう親しい間柄!?だから、どんな構成で、何を描きたいのか、そして登場人物の根幹になっている要素も手に取るようにすんなり入ってくる。真山青果の作家としての力がここにある。テーマが明快で、登場人物がきちんと輪郭づけされていて、二人三人の主要人物の葛藤を中心に描く。小手先の技術でなく、人間を真正面にとらえた作品。 昨日も青果の『敗北者』という小説を読んだが、すごいね、物事を淡々と語るには筆が似合わないけど、劇的な場面を作ることにかけては、まだ小説だけ書いて戯曲に手を染める以前から、その実力はもっていたことがわかる。 テーマや色合いは違うが、『唐人お吉』はいってみれば、大人になったお夏であり、お七である。お夏やお七が恋愛にわけもわからず突き進んでいく純真さがあるとすれば、お吉はその時期を超えて、自分のしていることと自分のすべきこととの葛藤に悩まされる。そのために、恋愛さえも犠牲にする。しかし、思っていること、主張することは、同じ作家の筆からか、とても似たようなものになっている。 これからも読んでいきます。

田宮のイメエジ

今日は戯曲を二本読んだ。 ひとつは岩松了の『恋愛御法度』。 もうひとつは、川口一郎の『田宮のイメエジ』。 前者についてはいうことはないが、後者の作品はなかなか味わいのある小品であったように思う。 かつて青春時代を過ごした場所を焼け跡として、ある夫婦が再見すると、かつてふたりに共通した友人の姿が思い浮かんでくるといったお話。 戦争の時代にその青春時代を送った夫婦には、ある消し去れない思い出がある。その思い出を振り切るには、戦争ということも振り切らなければならない。焼け跡を前にして、夫婦の葛藤は緩やかに変化していく。 未来に向かうために、焼け跡と田宮のイメエジに直面していく夫婦が描かれている佳作だと思う。 そうなの。振り切ることのできない過去というものはあるんだよね。そこを乗り越えていかなければいけない。そのために、今現在の自分にとって苦しい過去も、試練も耐えなければならない。 ぼくは高校時代・大学時代に、どうしても頭から離れられない、ある人のイメージがあって、それが夢にまで出てきて重圧を与えた。ある意味、その人を常に念頭におくことによって自分の励みにもなった。いわゆるトラウマという名で呼ばれるものかもしれないな。 一変してしまった風景というものもある。現在でも、天変地異のために起こらないとも限らない。年を経るにつれて、もう見えなくなってしまった光景というものもある。また、ほんの数か月で荒廃してしまう人のつながりというものもある。 そういう焼け野原を見て、また未来に進んでゆくのには、勇気や努力がいる。 以前の話だが、パソコンが壊れてホームページのデータが吹き飛んだくらいで、茫然自失になるようじゃ甘いのかな… 舞台は作っては壊すものだと、先輩の俳優から何度も呪文のように聞かされてきたが、そのとおりなのだな。楽日の数時間後には、舞台セットが跡形もなくなくなっているのを何度経験したことか。そして、そのときにささやかながら、また次の舞台に思いを馳せるであろう。 人との出会いも次々に更新されていく。 『田宮のイメエジ』。なかなか面白い作品だな。

作家と骨組

これは分かりきっていたことではあるが重要なこと。 映画にも、演劇にもあてはまること。そして、もちろん音楽にも。 それは、戯曲・シナリオ・スコアが、良いものであることが、その上演の基礎になることで、いい上演にしたいのなら、基本の骨組である戯曲をいいものにするのが早道であること。 どれほどの労力を作家・作曲家の書く骨組に費やしても、無駄になることはない。 いいシナリオがいい作品を作れないことはあっても、いい作品は必ずいいシナリオによる。 今回の『お夏清十郎』は、やはり戯曲の力が大きい。はじめからそれは分ってはいたが、出演者・スタッフ・お客様・そして演出のぼくも含めて、すべて真山青果のこの戯曲に頼るところが多かった。この戯曲を綿密に自分たちのものにすることで、あとは作家の力でぐいぐいひっぱっていってくれる。 稽古過程の最初と最後は作家の腕にかかっている。 それだからこそ、橋本忍・小國英雄・黒澤明は旅館に缶詰となり、シナリオを作るのに血のにじむような努力をする。真山青果は取りつかれたように歴史劇を書き綴る。 すべて作家の詩心にかかっているとしても過言ではない。 単純に作家の書いたことを実行することほど難しいことではあるが、最終的にはそこに辿り着かなければならない。ひどく遠回りしながらも、作家の書く単純な行動が、人の胸を打つ。 伊丹万作の『国士無双』といったシナリオや、「シナリオ時評」ほかの随筆を読んでいる。 改めて思う。作家の作品を吟味しているこの時期こそ、極度の神経と明確な把握が必要なのだ。ここを間違ってはならない。それによって行き先も変わるのだから。 こうしてみると休まる日などないのだな。仕方ない。自分の選んだ道だから。

月夜の利左衛門

『西鶴置土産』を読んだ。井原西鶴の本と、真山青果が戯曲化した本の両方を。 そのなかの一篇、「人には棒振虫同然に思われ」で、利左衛門は女郎を身請けしてからのちは、貧乏ぐらしをしながら生活を送っている。女郎に大金を投げるようにして使っていた昔とくらべ、現在は子供の服の替えがないほどの極貧の暮らしをしながら、親子三人で暮らしている。そんな利左衛門が昔の遊び友達に見つかり、見栄を張って彼らを家に呼んだ。むかし太夫だった女房も見栄を張って貧乏を誇りにし、利左と女房はその昔友達たちの金銭の援助も断り、あくる日には利左と女房と子どもの三人は家を出て行く。そんなお話。 井原西鶴の研究者の熊谷孝は、西鶴の世代を逃亡世代と名付ける。民衆としての人間回復を志向し、精神の自由を守るために封建体制の枠から逃げる人たち。逃亡することで、自己の存在証明をする人たち。西鶴はその逃げる人たちに、人間性回復と自分たちの世代のあるべき姿を発見したという。 『お夏清十郎』のふたりももちろん逃げたし、昨日書いた兵庫の男女も逃げた。西鶴のほかの作品の人物たちも逃げる。トリュフォーの『大人は分かってくれない』の少年も逃げた。漱石の『門』の宗助と御米も逃げた。西鶴や近松や溝口の暦屋おさんも逃げた。 利左衛門の逃亡はどんな逃亡なのだろうか? まずは、女郎遊びをしていた利左衛門が遊びでなく恋をして、女郎を身請けするところにひとつの道の選択がある。『お夏清十郎』の清十郎にはそれができなかった。この道は破滅の道である。というのは利左衛門と恋をした太夫は当代のトップの女郎であり、その身請けの金額はとてつもないから。手元に残ったお金はないどころか、借金だらけだろう。そんな道を選択したのだ。 そして昔友達に憐憫を受けた後の逃亡。西鶴はその昔友達が道楽をやめてしまった教訓として書いていて、利左衛門の逃亡そのもは描いていない。真山青果は利左衛門の逃亡は見栄を張る嘘の世界を離れて、正直に生きるために稼ぎに行く結末としている。 利左衛門の逃亡は、心機一転巻きなおしということなのかもしれない。昔友達から逃れようとしたわけでなく、今までの生活からの脱却。大尽が女郎を買う買われるの浮世の世界から離れて堅気になった二人であるが、昔友達に会ってみると、二人ともそんな浮世の垢がまだこびりついている。そこからの脱却。 ...

お夏清十郎と逃走

ドゥルーズとガタリの共著、『千のプラトー』を読み、それに関する参考書などを読んで、少しくらいかじっただけで、さも知り尽くしているかのように書くのは嫌いだが、ぼくには少しそんな要素もあり、さも知っているかのように、声を小さく、また少人数にだけ、ボロがでないように、そして自分の言葉を使って言い直すことにする。というより、日ごろ思っていたことが、ドゥルーズたちの本の後押しを受け、形にできたというべきか。 言いたいことは、真山青果の書いた『お夏清十郎』についての考えだ。あらすじを説明するのは面倒くさいから、気ままに書いてしまうが、真山版『お夏清十郎』の中には、さまざまな闘争が隠されている。そして語呂合わせではないが、その闘争の手段としての逃走も。 言ってみれば、この話は、ドゥルーズ流に言うなら、集団化・官僚組織化・ファッショ化・帰属化・抑圧・抑制・蓄積・定住化に向かう偏執型(パラノイア)と、逃走・自由・遊牧・脱領土化・解放に向かう分裂型(スキソフレニー)の戦いなのではないか? わかりやすく、戯曲に即していうと、資本の安定を求め個人を制御していく者と、その考えから逃れようと必死にあがく者との戦い。体制側と反体制。 端的にいえば、九右衛門とお夏の戦いに代表されるのだが、その図式は戯曲を読めば中心に書かれているのでここではおいておく。 反体制側は面と向かって戦うことはしない。面と向かって豪商の主人に歯向かえば、法律で罰せられてしまう。そこで、逃げる。逃げ道を用意する。まあ、お夏と清十郎が駈け落ちしたことがその代表例ではあるが、ほかにもある。 まず与茂七は、番頭の身分ながらアヴァンギャルドである。お夏に恋をしたために、家を出奔したり、清十郎に「そんなに一生懸命働いてどうする?」といってみたり、しまいには主人に「もう一度出直しなさい」と進言したり。 お亀も恋のために、もうこの商店では働かないことを決めたり、清十郎の処刑後にお夏に怨みを言いに詰め寄ったりする。 このふたりが、抑圧する者にたいして、身体で異議を唱えたことが、お夏と清十郎の駈け落ちのきっかけとなる。 また、体制側に属しながらも、半分身をかわしている者もいる。 久七はお夏をこきおろしているし、卯之吉は若年であることもありお夏たちに同情を隠せない。乳母は自分の職務以外には顔を突っ込まない。 ...

お夏清十郎〜雑感〜

伝説というものはおもしろいもので、後代に手を変え品を変え受け継ていく。ぼくの故郷にも安寿と厨子王の碑石があるが、二人がそこを通ったということはありえない、が、しかしなぜかあるのだ。浦島伝説にしても東アジアから東南アジアにかけて同じような伝説がいくつもあるというから、なにがオリジナルなのかという詮索はする意味もないようだ。 お夏が狂乱した後にも、いくつもの伝説があり、野山を駆け回ったとか、姫路城下を徘徊したとか、正覚寺で尼僧になったとか、葛坂で茶屋を開いたとか。まあ、噂というよりも、後代の人が脚色して自分の土地にかこつけたとか、似たような女性をさしてお夏と名づけ親しむうち、伝説にすりかわってしまったり。 お夏がどのように生涯をすごすにせよ、不思議なのは、お夏は長生きをしたということが共通している。自殺を図ったが死に切れなかったり、周りの人たちにとめられたりした。狂乱も次第に止んだということも共通している。 清十郎と駈け落ちをし一大事件を起こしたお夏の生涯の行く末を、庶民は惨めなものにしたくはなかったのかもしれないし、実際のところ、お夏の狂乱は収まったのかもしれない。 井原西鶴にせよ、近松門左衛門にせよ、お夏は尼になり清十郎を弔って暮らしたという結末にしているのは感慨深い。事件は悲劇的な結末となってしまったけれど、生き残った人間が気が狂うだけで一生を失うのは感傷というものだ。清十郎の死の衝撃を受け止めて人間的に成長していくことに、両作者は意義を見出したに違いない。しかも、噂や聞き伝えがそれを証明し、お夏は立派に尼となって誠意をこめて弔っているという言い伝えの声が大きいのだ。 お夏が衝動的に大恋愛をし、でかいことをしでかし、悲劇となった後は立派な人間になるという筋立ては、庶民感情の支持するものであったのだろう。そこに庶民は幸福のかけらを見出したにちがいない。第二のお夏が次々と現れ、心中というかたちを選んだり処刑されたりする歴史が繰り返されるであろうが、当のお夏は幸福の円環の中にあることはおもしろい。 いたたまれないほどの悲劇的な結末でもなく、かといって安易なハッピーエンドでもなく、なぜか歴史に消え行くベクトルでお夏の伝説が受け継がれているのがおもしろいことだ。ある時点で、表舞台から自ら消えていった伝説の女優というのがいるが、その感覚に近いものがある。...

大脱走

今さらながらだが、浅田彰の『逃走論』を読んで楽しんでいる。いったい誰に語っているのかわからない口調の文もあれば、難しい概念の文もある。二元論的にばっさりと切り捨てるところが、いさぎよい。しかし、それが落とし穴というか、論理のまやかしに通じるかもしれない。が、おもしろい本だ。 パラノ人間(偏執型)とスキゾ人間(分裂型)。前者は定住、蓄積。後者は脱走、ギャンブル。過去を背負いしがみつく姿勢が前者で、後者は過去をゼロに戻しとんでもない方向に走っていく。 思えば、どれだけわたしたちは伝統や格式や規則を当然のことのように受け入れているだろうか?穏便な社会生活を送る上では、そのことが必要とされるのかもしれないが、ときには冒険のひとつやふたつしたくなるのが人情というものだ。そんな冒険にまで、日常の規範を導入しなくてもいいわけで、そのところに祭りなどでの馬鹿騒ぎの理由が見いだされそうではあるが、その非日常の祭りまで年中行事としてスケジュール化してしまう波がおしよせる。こうなったら、逃げるしかないのか?どこに? はみだしたい、日常を忘れたいという欲望も、たいていはつっぱりや酔っ払いなどの人間界の風物詩となってしまう。音楽よりも姿格好のほうに気力を傾けている自称ロッカーに会ったことがあるが、見ているのが気の毒なほど俗的に典型化していた。 ブレヒトが異化ということばを使い、シクロフスキーも別な分野で異化ということばを使い、浅田がスキゾフレニーということばを使っているのも、現実の重みのために思考や感性が自動機械化してしまうことに対する警告なのかもしれない。現在においては戦わなければいけない。判断や感性が鈍くなるというより、過去の判断の積み重ねの重さが強度を増すのだ。 若いときに嫌悪していたことが、年を重ねると許せるようになるのは、人間が成長したことかもしれないが、同時に、若いときの嫌悪も絶対的に真なのだという真理を持ち続けていかないと、すべてをにこやかに許す愚鈍な感性になってしまう。 そうならないためにも、ひとつの事象にぶちあたったら必ずゼロから出発する固い意志が必要になってくる。ひとりの人間を前に、若者だとか、学生だとか、外国人だとかいう枠組みの中でのレッテルを貼らないで、不可思議なひとりの人間という認識から出発しなければいけない。 歴史は繰り返すというが、ひ...

生者の行進

ここ数日、別役実の作品を通して、死というものを考えてきた。 それには伏線みたいなものがあって、夏目漱石の『硝子戸の中』のある場面で、漱石が、生きるべきか死ぬべきか迷っている女性に、どうしても死を勧めることはできなかったということ。 カミュの『シジュフォスの神話』の、カミュの描くシジュフォスの戯画では、シジュフォスはまず死の神を鎖でつないでしまったというエピソードを残している。いっこうに死者が来ないので、地獄の神が怒ってしまったという神話。 また、シシュフォスは死んで後、人間的感情をもたないで自分の遺体を広場に放置した妻へのこらしめのために、生の国に一時戻る許可を地獄の神から得て、地上に戻ったが、この世の姿、水と太陽、入江の曲線、大地の微笑をすっかり気にいって、地獄から帰って来いといわれてもずっと無視しつづけ、生の輝く世界を前に行き続けたという。しまいに地獄から追っ手が来てつかまってしまったという。 柄谷行人はおもしろいことを示唆している。葬礼は死者を片付けて、それがいない世界をつくるためになされる。死者を弔うのは死者を考えているのでなく、ある者が亡くなったて穴があいて不安定化した共同体を再確立するため、また死者を忘れ去るためになされる。葬礼は原始時代から、つまり生者の社会の共同体があるところでは必ず行われる。キルケゴールの言葉を引用して、死者とは他者であり、死者と生者の関係がかわるとすれば、生者が変わったからにほかならない、われわれは死者と交渉しようがないと。 死者を祭り上げるといった行為はすべて生者のための口実なのだろう。作家の死後100年記念や、銅像をたてる、宗教的儀式も含めて。政治家の靖国神社の参拝なんかは特に政治家としての口実・体面としてであって、偽善的に太平洋戦争の死者を祭り上げている。 ぼく個人としては、死者を祭り上げた祭礼ほど陰気なものはないと見る者で、生の祭典のあの躍動と比較して、どうしても歓迎できないものだ。偉人の銅像なんてつまらないものだし、映画人の復活上映は忘れられていた映画を生者としてよみがえらせる行為においてしか意味をみいださない。 たとえば原爆の追悼の儀式も、湿っぽく行う必要はないのだ。われわれ生者の豊かな世界に、強制的に死者の世界に連れて行かたものを一時的に連れ戻そうとする祭典にすればいい。生者に強く光をあてれば輪郭...

異化について

以前、ぼくは詩を作っていた時期がある。今から、10年くらい前だ。そのときは何かひらめくとすぐにメモをとり、その言葉や意味を記憶させようとしていた。たいていそんなひらめきは使い物にはならなく、後々見かえしても何を意味しているのか分からない理解不能な単語も登場する。書き連ねている瞬間だけに通用する興奮をともなったひらめき。 詩を作っているときは特に考えたのは、日常的な感情や考えの単純さをどうやって輪郭づけして際立たせるかということ。普段なら自動的に連想してしまうイメージを遮断して、別の象徴的なイメージに結びつけるかということ。何気に難しいんだ。人間、何の気なしに、無意識に自分の経験や過去のイメージを保存しているようで、そこにたどり着くのを安心し、安住してしまう。言葉遣いもマニュアル化してしまう。そこをいかに断ち切るかにかかっている。 なんでこんな話を持ち出したかというと、異化ということばに引っかかっているからだ。演劇の世界では異化といえばブレヒトにいきつき、そのブレヒトの異化理論というものの有効性を確かめたい。 異化、つまり特殊化。強調。距離を置くこと。非日常化。 インターネットで時折音つきのサイトがあり、そこを開いたときに、はっとする。それも異化というべきか。 和やかな談笑の場に、深刻な顔をした人が入ってきて、ある人の亡くなったことを告げる。そんなときも日常的な次元から急速にある次元に飛んでいく気がする。これも異化だな。 通勤途中に見たのだが、急な坂を上っていた自転車がいきなり、ぐにゃ、と崩れ落ちる。荷重がかかりすぎてフレームが折れたのだ。これもびっくり。これはアクシデントか? 溝口健二の『祗園の姉妹』だったけな、最後に主人公が激しく慟哭しながら世の中に抗議をするときに、カメラが、ぬっと、一歩前にでる。そこにカメラの非自動化がある。 最近のテレビや映画ではすこぶる低調だが、サンシャイン劇場で『どん底』をやったときの仲代達也のサーチンが、酒を飲み込むしぐさ。手をひらひらひらひらさせながら喉元からお腹まで下ろしていく。これぞ異化だ、素晴らしいと思ったなあ。 夏目漱石の『それから』で代助が勘当されて電車に乗って赤いものに極度に敏感になり、増殖していったのも、異化といえるだろうか? 結局、結論はでないものだ。さまざまな例を感じ取りながら、この難しい...

ハロルド・ピンターはこう語った

ハロルド・ピンターの『何も起こりはしなかった』(喜志哲雄編訳、集英社新書)を興味深く読んでいる。劇作家で、2005年のノーベル賞作家だが、そういった肩書きを説明する必要はあるまい。かなり刺激的な劇作品のいくつかを読んで、興味はもっていた。 そんな作家が、ノーベル賞の記念講演で述べたことは、世界情勢についてのかなりの危惧であることがおもしろい。彼の作品を読んで気づくパンチ力は、そういった認識を基本にして生まれることが分かった。 演劇や文学が、人生や真実や社会などへの問いかけから離れるとき、(ぼくのことば使いでいえば)お伽噺になるときに、それらの芸術は単なるショー、見世物になってしまう。そういった類の見世物を否定はしないが、そんなバラエティ番組が世の中にあふれてしまうのはいかがなものかと思う。 娯楽という概念が、何も危険物を含まない、身に優しいもので、表層を心地よくさせるものとして利用されるとき、ローマ帝国時代の享楽主義やバブル期の日本のように、怪物的な頽廃がはびこってしまう。 無残なリゾート地の廃墟やお化けのような化粧は、彼ら自身の前に鏡を置いてあげたいくらいだ。しかし、鏡をのぞく本人たちには鏡にうつる意味は理解できないのだが・・・ ピンターが目の敵にしているのは、アメリカ政府という怪物だ。彼はイギリス人なので、アメリカに追随するブレア首相をも非難している。そういえば、ブレアはイラク戦争の責任で退陣するのだったな、たとえ本人は認めていなくても。イラク攻撃のときは誰もが、攻撃の理由はおかしいのじゃないかと疑問に思ったと思うのだが、それがわからなかったのはアメリカに追随するいくつかの国の政府だった。(もちろん日本もな)。 ピンターも指摘するとおり、そんな理不尽な行動が、アメリカがすることだからと容認されてしまい、思考も正常な判断も放棄してしまう、全体主義が恐ろしいことなのだ。アメリカ政府のやりくちは見世物師的なところがあり、市民も感情的に扇動され、対外的には脅しや嫌味といった仕掛けで周りを取囲んでいく。 わたしたちが、生活レベルでも、社会のレベルでも、政治的なレベルでも、問題点を一過性の話題としてとらえることに慣れすぎると、重大な問題として捉えることを忘れてしまう。自分の問題意識を毎日のニュースのように入れ替わりさせてはいけない。殺人事件の詳細を興味本...

新しい人

大江健三郎はその著書『「新しい人」の方へ』の最終章で「新しい人」を定義づけている。新約聖書のパウロの手紙で使われていたらしい。難しい対立のなかにある二つの間に、本当に和解をもたらす人として思い描いている。敵意を滅ぼし、和解を達成する人。 『ロミオとジュリエット』もそんな新しい人の出現と死によって、いがみあうふたつの世界が和解することになる。 この世界は放っておくと憎しみや敵意が正当化され、権利化され、当然視される。境界線を越えて侵入してきた者は、銃撃することが当たり前とされる。人間の心の境界線の場合も踏み越えて入って来られることに恐れを抱く。 境界線といえば、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の雪山を思い浮かべる。雪に覆われた国境を脱走兵が越えるのだが、警備兵は雪で見えない国境線を越えた途端に銃撃をやめる。越境したからだ。見えない国境線を越える前までは銃を向け、見えない国境線を越えた後は銃を下げる。その境界線は大いなる幻影というわけだ。何を根拠に敵意や攻撃をするのかは、まったくの曖昧なものだということ。 ルノワールの越境(フランス文学者の野崎歓が丁寧にルノワールの越境性を論じている)、ロミオとジュリエットの恋の越境、大江健三郎の「新しい人」、これらすべて、人間のちっぽけなエゴイズムや敵意を友愛の手で変革しようとする試みなのかもしれない。 新しい世界をもとめなければいけない。 真山青果の『お夏清十郎』のお夏も、清十郎も、与茂七も、お亀も、みな新しい世界を夢見たり、希望したり、託したり、踏み出したりしたのだ。いつまでも古い世界の古い人であることに居心地の良さを見出していてはいけない。 新しい人にならなければ。 ブレヒトも、戯曲を読むときに、新しいものと古いものを探せという詩を残している。 こうしてみると、世界を読み解く鍵が、その辺りに潜んでいるような気がしてきた。そしてつねにその鍵は無力ながらも、友愛にあふれ、平和的なものである。暴力や敵意やエゴイズムや領土欲を肯定する思想には、十分気をつけなければならないな。

夢十夜

今日、正確にいえば昨日は、暖かかったし、仕事も暇だったので、仕事の合間に夏目漱石の小説を読み進めることができた。 眠くならなければ百ページ以上読むこともできただろう。おまえは仕事中なにやっているのだ、おい、というわけだが、実際暇で待機しているのだから仕方ない。それにしてもぽかぽか陽気だった。 そう、夏目漱石、『夢十夜』。新潮文庫についている宣伝の紙、あれなんて言うんだっけ?映画『ユメ十夜』の映像シーンの写真が十点載せられているが、映画はみていないが、どうもパロディにしか思えなく、漱石の作品から受ける印象にあった写真は一枚もなかった。安っぽいというか、安易というか。宣伝写真一枚でこんなに印象を植えつけるものかと逆に関心してしまった。あの宣伝を見て、映画は観に行きたくはないな、ぼくは。 そう、「夏目漱石」の『夢十夜』。第三夜の話はちょっとした落語でもあり、またスリルのある話でもあり、人に人気があるのはうなずけると思った。 夢で見たという設定なのだが、十話通して読み終えると、これは夢で本当に漱石が見たものだというよりも、夢という形式を借りて漱石が創作・脚色したもののように思える。 そして、漱石の作品には夢ということ、またはそれを見ているときの状態、つまり誰かが寝ている場面が多く見出せる。『三四郎』での廣田先生の森の女、三四郎は熱にうなされ横たわる。『それから』での代助はユリの匂いのなかで昼寝をする。 この『夢十夜』は漱石的なお昼寝、夢というテーマが根元にある。 そして、いつもそうで、ここでもそうなのだが、漱石は夢の内容・そのつじつま・合理性には無頓着である。『夢十夜』の一話一話から漱石の無意識の働きを探り出そうとしても、あまり意味のないことのように思える。 脈絡のない話を意味づけるのは、夢からさめそうなとき、つまりまどろんでいるときなのだろう。だから、意識が半分働いているそんな状態のときは、夢はもう遠くに去っていて、それを思い出そうと必死に努力している。夢は夢自体の威力を失っている。しかし、脈絡のないままに放っておくと、夢は記憶にひっかからず、思い返すこと、さらには夢を見たことすら忘れてしまう。 『夢十夜』は、夢の論理と破格の間の位置を、見計らっているかのように思える。深入りせず、しかし物語性はあるように。 今夜はぼくはこれから寝ても、疲れすぎ...

硝子戸の中・外

たった今、夏目漱石の『硝子戸の中』を読み終えた。 友人のお気に入りの作品のようで、ぼくも手にとってみた。 作家である漱石が、講演を依頼されたり、話を聞いてくれとお願いされたり、俳句をつくってくれと頼まれたりし、漱石はひとつひとつそれに応えようとささやかな努力をしている。成功に終わったり、気まずい思いをしたり、不快になったりと、結果はまちまちだが、漱石がそこで、読者の要望に応える努力をしているところに興味をもった。 ぼくは、あの映画はよかったよ、この本は読んでみるべきだとよく人から勧められるが、時間をあけるうちに機会を失い、意欲も失ってしまうことが多い。今回は素早く行動したおかげで残念な結果にならなくて済んだ。そして、鮮度が新鮮なうちに読んだことで、友人がどこに興味をもってこの本を読んだのかが、分かりかけたような気がした。自分の読書という以上に、他人の読書感も取り込んだと思えたのは錯覚だろうか? 影響を受けることに機敏で、人に勧められるが否かすぐに物事に取りかかれる人がいる。もともと、ひとりの人間の興味の範囲も、知識の範囲も狭いに違いない、せっかく勧めてくれる人がいるのだ、試してみようという好奇心と行動力。 そんな反応の素早さは神々しいくらいだ。 反対に、時間が空いたときでいいや、明日があるさ、後回しにしようとか言って、自分の仕事に没頭することで、どれだけの新鮮さを失っていくのだろうか?自分のやらなければいけないことは、かえって、今やらなくてもいいことなのかもしれない。影響を受けたと同時に、そちらのほうに取りかかるべきなのではないか? 小説にせよ、映画にせよ、演劇にせよ、表現とはコミュニケーションの場を提供することにほかならない。漱石でさえ一方通行で終わらせようとはしない。 物語として緻密に構築されていて、どこにも取りつく術がないような作品であろうと、どこかに入口があり、そこから自由に意見や想像力が出入りしているものだ。 そして良い作品というのは、そういった扉が豊富に用意されて、どんな人にも開け放たれている作品なのじゃないかと思う。 一番いいのはそこでお茶を飲みながら談笑できるような、開放されたロビーをもつ作品なのじゃないか? 閉塞した作品は、読者が中に入ろうとしても入れないし、作家は中から出られない。 だからこそ! 大いに隙をつくる...

ロミオとジュリエット(その3)

引き続きロミオとジュリエットを読む。 マーキュシオの謎のことばは、ひとりの人間が突然思いもよらないかたちで被害をうけ、その原因が憎むべき敵と親友の両方にあるのだから、彼が死に際に恨み節を吐露する気持ちはよく分かる。 しかし、彼すらが、両家の敵対する状況の最先端にたって、喧嘩をひき起こしていたのだから、この捨て台詞にこめられていた恨み節は、結果的に彼の超越的な態度の限界、彼のユーモアの限界を示していたこととなる。 もしくは、剣の一突きによって真実にめざめたとでもいうべきか? 彼の「両家ともくたばってしまうがいい」という言葉は、確かにそのとおりなのだが、自分で引き起こした戦いの結末としては、感情的になりすぎている。そして、いくぶん虚無的だ。 マーキュシオが死ぬ前までの場面は、主要な3人、ティボルトの名誉を守るための闘争を選ぶか、マーキュシオの虚無的な皮肉を選ぶか、ロミオの無力な友愛を選ぶか、その葛藤が激しく噴出している場面だ。そして、前者ふたりは憎しみとエゴイズムが生み出す破局的な状況の枠内の行動で、ロミオはその狭い領域からの越境をはかった行動といえる。 ロミオが手を握り合おうと友愛を呼びかけたことは、愛のエゴイズムのために臆病になってしまったと理解するのがよいのか?それとも、ロミオこそが愛のために真実をつかんだと理解するのがいいのか? 激しく敵対し、泥沼になった戦争状態は、考えるまでもなく現代世界の状態でもある。それが当たり前であるかのように、現実的という名の麻痺が蔓延している。 ロミオの高邁な思想は、親友であるマーキュシオの死により、自分自身の手で打ち砕いてしまう。直前に寛大なことばを吹聴した者とは考えられないほど、憤怒と衝動にかられて自分自身を否定する。 ロミオの悲劇はここにある。 そして、人間の高邁な愛が敗北するのは、ロミオとジュリエットが死なざるを得なかった状況だけでなく、ロミオが自分自身をあやめたところにもある。 結局、暴力をふるわなかったり、待ち続けた者だけが、寛大な行為をしているといえるのか? そうした意味で、ジュリエットですらが急ぎすぎていたわけで、沸騰する青春の悲劇はその熱さに原因があるのかという、いささか絶望的な結論をしてしまうことにもなる。 悲劇をもたない人生など意味がない、などと慰めてはみても、やはりこれだけ...

ロミオとジュリエット(その2)

ロミオとジュリエットを読んでいる。 マーキュシオの死際の台詞は、謎のような意味を持っている。 ティボルトとマーキュシオが戦っているところに、ロミオが間に入り、戦いをやめさせようとする。マーキュシオを押さえたのだが、その隙にティボルトがマーキュシオを剣で刺す。マーキュシオは、「両家とも滅びるがよい」と捨て台詞を残し、卑怯なティボルト、死の原因となったロミオを呪うかのように死ぬ。 彼の死を契機として、ロミオはその青春から転落していく。両家は全面戦争に突入していくことだろう。 もちろんマーキュシオはロミオと同じ側に属していて、中立の立場にいたわけではないので、ティボルトを大いに恨むことはあっても、ロミオの過失を過度に恨むことはありえない。卑怯こそ憎むべきものであって、判断ミスの過失を責め立てて死んでいくのは、彼の批判的知性やユーモアにはふさわしくない。 だからこそ、謎なのだ。 マーキュシオの死際の絶望的なつぶやきは、予言的な含みも持っている。たしかに、このあと両家はこの戦いに参加した主要な3人をあいついで失っている。 また、ふたつの家の間に共通して、ティボルトとロミオに共通するもの、すなわち熱狂、その間に入り熱狂を馬鹿らしいものとして死をもって示したのだろうか? ロミオとジュリエット ロミオとジュリエット(その3)