人にはそれぞれの顔があるように、人それぞれの考え・思想というものもある。同じ事件を見ても感じることは違うだろうし、気づくことも、観察するところも千差万別だ。
それなのにどうして、ひとつかふたつの意見に早々と集約されるものなのか?
要するに賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかと、簡単に結論づけてしまうものなのだろうか?
人間の思考が複雑なものを単純化して記憶し、整理するものだからか?
一般的な意見に沿うのが安心だからか?
そもそも人間みな同じようなことを考えているからだろうか?
ある作家の小説を読むときに、ある視点・ある視角というものが、読者によりはっきりと明快に分かるときに、その小説がよりわかるのであり、その視点に共感できるからこそ、それを愛読する。
一般的な視点で書かれたジャーナリズム的な小説には魅力を感じにくいものだ。
ならば作家というものは、物事を単純化する一歩手前で立ち止まり、作家個人のフィルターを通してものを書くのだろうか?
賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかを、結論づけてしまう前に「わたし」のところで一呼吸し、「わたし」を探る。そうして探り当て出てきたものは、同じ「賛成」でも同じ「反対」でも、一般的な「賛成」「反対」とは違ってくる。
もちろん通常だれでも同じことをしているが、作家はより慎重に、より懐疑的にそれを行う気がしてならない。
映画の名作と呼ばれる『東京物語』(野田高悟、小津安二郎作)は、脚本からして豊かに、また明快にできている。そのテーマを声高にではなく、しかし着実に語っている。それが二人がとった視点から語られる物語だからこそ、そしておそらくは、その視点から思い切って描いたからこそ、名作なのだ。
『悪魔を憐れむ歌』(ゴダール監督、出演ローリング・ストーンズ)も、奇抜なドキュメンタリーでありながら、ゴダールの見る目が感じとれた。あえてそこからしか見ようとしない、そしてそこから見させる意志が汲みとれた。
早急に結論を出すことの一歩手前で立ち止まり、ある意味戦術的に自分の視点を確保してみようか。どうせ、結論自体たいていは陳腐だったり、ころころ変わりやすいほどのものなのだから。そして、人は多かれ少なかれ自分の出した(と考えている)意見や結論に固執してしまう頑迷さを持っているから、自分で自分を縛りつける一歩手前で、「ふと我に帰る」こともあながち間違ったことでもあるまい。
それなのにどうして、ひとつかふたつの意見に早々と集約されるものなのか?
要するに賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかと、簡単に結論づけてしまうものなのだろうか?
人間の思考が複雑なものを単純化して記憶し、整理するものだからか?
一般的な意見に沿うのが安心だからか?
そもそも人間みな同じようなことを考えているからだろうか?
ある作家の小説を読むときに、ある視点・ある視角というものが、読者によりはっきりと明快に分かるときに、その小説がよりわかるのであり、その視点に共感できるからこそ、それを愛読する。
一般的な視点で書かれたジャーナリズム的な小説には魅力を感じにくいものだ。
ならば作家というものは、物事を単純化する一歩手前で立ち止まり、作家個人のフィルターを通してものを書くのだろうか?
賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかを、結論づけてしまう前に「わたし」のところで一呼吸し、「わたし」を探る。そうして探り当て出てきたものは、同じ「賛成」でも同じ「反対」でも、一般的な「賛成」「反対」とは違ってくる。
もちろん通常だれでも同じことをしているが、作家はより慎重に、より懐疑的にそれを行う気がしてならない。
映画の名作と呼ばれる『東京物語』(野田高悟、小津安二郎作)は、脚本からして豊かに、また明快にできている。そのテーマを声高にではなく、しかし着実に語っている。それが二人がとった視点から語られる物語だからこそ、そしておそらくは、その視点から思い切って描いたからこそ、名作なのだ。
『悪魔を憐れむ歌』(ゴダール監督、出演ローリング・ストーンズ)も、奇抜なドキュメンタリーでありながら、ゴダールの見る目が感じとれた。あえてそこからしか見ようとしない、そしてそこから見させる意志が汲みとれた。
早急に結論を出すことの一歩手前で立ち止まり、ある意味戦術的に自分の視点を確保してみようか。どうせ、結論自体たいていは陳腐だったり、ころころ変わりやすいほどのものなのだから。そして、人は多かれ少なかれ自分の出した(と考えている)意見や結論に固執してしまう頑迷さを持っているから、自分で自分を縛りつける一歩手前で、「ふと我に帰る」こともあながち間違ったことでもあるまい。
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