演劇に取り組む人がおそらく必ずぶち当たる壁、大げさに壁とは言わないまでも、障害というものは、日本の作家が日本語で書いた戯曲と海外の戯曲の間に横たわる差異であろう。
これがテレビドラマであったり、日本映画であったりしたら、日本人の役者が「ハロルド」とか、「マクベス」とか名乗るのを聞けば、即座に違和感を覚えるであろう。
演劇では同じ役者が、ロシア人にも、中国人にも、古代ローマ人になっても、その条件性を受け入れることは難しいことではない。
だが、たとえある俳優がカナダ人になったとしても、どこまでカナダ人としての人間性を表現できるかは疑問だ。ある意味ほぼ不可能かもしれない。カナダ人を表現するというよりも、人間一般、ある国の特殊な人間でなく人間性そのものを表現するともいえる。かといって、カナダ人の生活や風習や歴史・文化を知らないうちに、安易にカナダ人役ができるとも思えない。
トリュフォーの映画にも、「おかしな日本人」が出てくるが、その場面は、日本人の観客には失笑の種だ。
中国人らしい人が日本人として出演している映画もよくあるが、あれも違和感を感じる。
日本のドラマでも、人種の違った人間を外国人一般でひとくくりにすることがあるが、日本人のわれわれには奇妙でなくとも、当事国の人間にはおかしく思えるだろう。
こうなると幻滅するくらいの限定された範囲でしか、演劇も映画もできないように思える。
そこで、日本語で書かれた、日本人を演ずる戯曲に取り組まなければならない、といった使命感みたいなものが出てくる。これは役者や演出家、必ず多かれ少なかれ通るものであろうと思う。
日本人と日本を綿密に表現したいという欲望。
だいいち、役者の演技が褒められるのは、外国人を演じるときよりも日本人を演じるときのほうが多いのだから、役者もそれを悟るのだ。
そしていつまでもそこを住処に、日本人を演じるという意識もなく自然と、身近な人間を演じることになる。
最初に「壁」と書いたが、その、外国人を演じることへの抵抗・障害を、どこまで乗り越えられるか、これもまた大事なことではないだろうか?
最近の日本のメディアや市民も、どこかナショナリズムなものを感じるのはぼくだけであろうか?大げさな「j」「〜ジャパン」、ある特定の国への偏見。
演劇や戯曲と、ナショナリズムとを結びつけるのはあまりに短絡的かもしれないが、あくまで自信満々に自国を持ちあげすぎる傾向には待ったをかけたいものだ。
日本の戯曲であっても、日本人を描いたものであっても、人間全体の問題として、現代の世界の問題としてとらえられるものとして見ていきたい、そんな思いにかられる。困難な海外の戯曲も、逆に、日本の問題としてとらえる。
かつて鎖国や軍国主義を危惧し、そこで戦った思想家の考えというものにひきつけられる。危機意識のなかで、ナショナリストになるのでなく、広く世界を受容することを先人はしてきた。
ちょっと大げさに問題を広げてしまったが、言いたかったことは、非常に限定された俳優芸術を認識することからはじめて、そこにとどまるのもよいが、そこから踏み出していく勇気や試みを持ちたいということ。
いろいろな段階を経ながらも、演劇でさえ、進み続けていかなければならないということであろうか。
これがテレビドラマであったり、日本映画であったりしたら、日本人の役者が「ハロルド」とか、「マクベス」とか名乗るのを聞けば、即座に違和感を覚えるであろう。
演劇では同じ役者が、ロシア人にも、中国人にも、古代ローマ人になっても、その条件性を受け入れることは難しいことではない。
だが、たとえある俳優がカナダ人になったとしても、どこまでカナダ人としての人間性を表現できるかは疑問だ。ある意味ほぼ不可能かもしれない。カナダ人を表現するというよりも、人間一般、ある国の特殊な人間でなく人間性そのものを表現するともいえる。かといって、カナダ人の生活や風習や歴史・文化を知らないうちに、安易にカナダ人役ができるとも思えない。
トリュフォーの映画にも、「おかしな日本人」が出てくるが、その場面は、日本人の観客には失笑の種だ。
中国人らしい人が日本人として出演している映画もよくあるが、あれも違和感を感じる。
日本のドラマでも、人種の違った人間を外国人一般でひとくくりにすることがあるが、日本人のわれわれには奇妙でなくとも、当事国の人間にはおかしく思えるだろう。
こうなると幻滅するくらいの限定された範囲でしか、演劇も映画もできないように思える。
そこで、日本語で書かれた、日本人を演ずる戯曲に取り組まなければならない、といった使命感みたいなものが出てくる。これは役者や演出家、必ず多かれ少なかれ通るものであろうと思う。
日本人と日本を綿密に表現したいという欲望。
だいいち、役者の演技が褒められるのは、外国人を演じるときよりも日本人を演じるときのほうが多いのだから、役者もそれを悟るのだ。
そしていつまでもそこを住処に、日本人を演じるという意識もなく自然と、身近な人間を演じることになる。
最初に「壁」と書いたが、その、外国人を演じることへの抵抗・障害を、どこまで乗り越えられるか、これもまた大事なことではないだろうか?
最近の日本のメディアや市民も、どこかナショナリズムなものを感じるのはぼくだけであろうか?大げさな「j」「〜ジャパン」、ある特定の国への偏見。
演劇や戯曲と、ナショナリズムとを結びつけるのはあまりに短絡的かもしれないが、あくまで自信満々に自国を持ちあげすぎる傾向には待ったをかけたいものだ。
日本の戯曲であっても、日本人を描いたものであっても、人間全体の問題として、現代の世界の問題としてとらえられるものとして見ていきたい、そんな思いにかられる。困難な海外の戯曲も、逆に、日本の問題としてとらえる。
かつて鎖国や軍国主義を危惧し、そこで戦った思想家の考えというものにひきつけられる。危機意識のなかで、ナショナリストになるのでなく、広く世界を受容することを先人はしてきた。
ちょっと大げさに問題を広げてしまったが、言いたかったことは、非常に限定された俳優芸術を認識することからはじめて、そこにとどまるのもよいが、そこから踏み出していく勇気や試みを持ちたいということ。
いろいろな段階を経ながらも、演劇でさえ、進み続けていかなければならないということであろうか。
コメント
コメントを投稿