岸田国士がおもしろいことを言った。
「舞台というものは、常に戯曲の生命を狭め、俳優の自由を束縛し、見物の幻想を妨げる厄介物であります。」(『現代演劇論』岸田国士)
そのために、舞台を「利用」して、舞台的拘束を舞台的魅力に転じなければならないと締めくくっている。
はじめて戯曲を読んだときに、語られた物語の世界を、想像でふくらまして魅力を感じるという過程は、どのような読者にでも起こることである。その戯曲を朗読したとすると、自分が読んだとき以上の感銘を一読で起こすことは不可能に近い。
空を飛びまわる空想の物語が小説なり戯曲なりで書かれていたとしても、実際に舞台で空を飛び回る姿は、限られた技術に頼った“ちんけ”なものだ。
どんな俳優にも年齢による役柄の変遷というものがあって、いつまでもうら若き娘役ばかりやってはいられない。
想像するのはどこまでも、どれほど大きくもできる。すべてが可能であるかのように、すべてが豊かであるかのように、想像の翼は広げられる。その想像に現実が追いつかないところに挫折が起こる。
もって生まれた顔はひとつしかないし、ひとつしか体は無いし、作家が自分で思って書いたことが俳優に体現されるとも限らない。
想像できる限りの舞台を楽しみに劇場に行ったとしても、そこで見られるのは、常套の舞台処理だったり、中途半端な演技だったりして、決して空を飛ぶピーターパンなどいない。そもそも空を飛べない人間が、空を飛ぶのを期待してはいけないのか?
こうしてみると、さまざまな限定・拘束が舞台を、また、現実をしばっているかのように思える。特殊撮影で空想と現実の混淆が分からなくなるほどの映画とは違って、ギリシアの昔から現代まで、舞台は人間的な手仕事の範疇で、想像と現実の混淆の錯覚も起こさせない前提のもとに行われている。手品師的な不可思議な技術で幻惑もしない。
背中にロープをくくりつけ空を飛んでしまい、紙切れ一枚の背景で世界を語ってしまう大胆な演劇だからこそ、逆説的に、想像力というものをもっと訓練しなければと思っている。
必ず地面には着地しなければならないのだから、適当な場所に適当な勢いでそこに向かうには、飛び方・はね方の訓練をしなければと。何も考えずに飛び上がることはできよう。同じく、常套的な演技も・常套的な演出も・ありきたりのセリフを語らせることもできよう。しかし、今、安易に考えられるからといって、結果を出さなければといって、想像力を貧困にしてはいけない。
想像力を働かせるには、長い時間や余裕や努力や懐疑が必要なのはいうまでもなく、とにかく粘ること、その作業に愛着をもつこと、やりつづけることしかないのではないか?そして、技術は大事だが、その技術を自分から生み出すこと。結果から入らないこと。
うむ。どうせ限定された囲いの中で、どれだけそこを豊かにできるのか?やってみようじゃないか。
「舞台というものは、常に戯曲の生命を狭め、俳優の自由を束縛し、見物の幻想を妨げる厄介物であります。」(『現代演劇論』岸田国士)
そのために、舞台を「利用」して、舞台的拘束を舞台的魅力に転じなければならないと締めくくっている。
はじめて戯曲を読んだときに、語られた物語の世界を、想像でふくらまして魅力を感じるという過程は、どのような読者にでも起こることである。その戯曲を朗読したとすると、自分が読んだとき以上の感銘を一読で起こすことは不可能に近い。
空を飛びまわる空想の物語が小説なり戯曲なりで書かれていたとしても、実際に舞台で空を飛び回る姿は、限られた技術に頼った“ちんけ”なものだ。
どんな俳優にも年齢による役柄の変遷というものがあって、いつまでもうら若き娘役ばかりやってはいられない。
想像するのはどこまでも、どれほど大きくもできる。すべてが可能であるかのように、すべてが豊かであるかのように、想像の翼は広げられる。その想像に現実が追いつかないところに挫折が起こる。
もって生まれた顔はひとつしかないし、ひとつしか体は無いし、作家が自分で思って書いたことが俳優に体現されるとも限らない。
想像できる限りの舞台を楽しみに劇場に行ったとしても、そこで見られるのは、常套の舞台処理だったり、中途半端な演技だったりして、決して空を飛ぶピーターパンなどいない。そもそも空を飛べない人間が、空を飛ぶのを期待してはいけないのか?
こうしてみると、さまざまな限定・拘束が舞台を、また、現実をしばっているかのように思える。特殊撮影で空想と現実の混淆が分からなくなるほどの映画とは違って、ギリシアの昔から現代まで、舞台は人間的な手仕事の範疇で、想像と現実の混淆の錯覚も起こさせない前提のもとに行われている。手品師的な不可思議な技術で幻惑もしない。
背中にロープをくくりつけ空を飛んでしまい、紙切れ一枚の背景で世界を語ってしまう大胆な演劇だからこそ、逆説的に、想像力というものをもっと訓練しなければと思っている。
必ず地面には着地しなければならないのだから、適当な場所に適当な勢いでそこに向かうには、飛び方・はね方の訓練をしなければと。何も考えずに飛び上がることはできよう。同じく、常套的な演技も・常套的な演出も・ありきたりのセリフを語らせることもできよう。しかし、今、安易に考えられるからといって、結果を出さなければといって、想像力を貧困にしてはいけない。
想像力を働かせるには、長い時間や余裕や努力や懐疑が必要なのはいうまでもなく、とにかく粘ること、その作業に愛着をもつこと、やりつづけることしかないのではないか?そして、技術は大事だが、その技術を自分から生み出すこと。結果から入らないこと。
うむ。どうせ限定された囲いの中で、どれだけそこを豊かにできるのか?やってみようじゃないか。
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