映画監督の吉田喜重は小津安二郎の『東京物語』のあるエピソードをとらえて、「空気枕の眼差し」と評している。老夫婦が、空気枕がそこにありながら探したように、人間がうっかり見落とすものがあり、空気枕は事物としての眼差しを老夫婦に注いでいたと。それは、大いなる物語・体系・人間の考えからこぼれ落ちるものであり、そんな事物の眼差しを小津は示していたと。 また、ブレヒトは異化という概念を使い、物語の筋道だった流れから予想される演技を拒み、観客が疑いをはさみうる余地を残そうと努めた。 モンテーニュは「わたしは何を知っているか」として、疑うことから始めた。 人間は信じやすく、また、大いなる物語や体系や組織のなかにいることに安心する。迷信や偏見や常識を身につけてしまうと、そこから脱却するのも努力を要する。ときには偶然に目を開かせられることもあれば、かたくなに目を開くことを拒み続けることもある。 ギョーザ事件なんかは、メディアの大海に乗ってしまうと、憶測が偏見を生み、過激な差別を生んでしまった。疑うこと、立ち止まること、事物の眼差しで事件全体を見られるようになるまでは時間がかかった。 メディアは、意図的ではないが、扇動することとなった。記者の興奮がメディアの興奮となって、視聴者・読者の興奮となった。 対イラクの件で、アメリカ人の冷静な意見が聞こえてくるには、もっと時間が費やされたことは記憶に新しい。 未だに戦争を美化する風潮は全世界にある。 核抑止論なんていうのも、恐怖と妄想が経済的利益と結びついているだけで、単なる論理でしかないことになぜ気がつかないものなのだろう?大いなる体系が偉大なる物語をシナリオ化している。それは作りもの。暗い夜道で誰かに引っ張られた気がして馬鹿力でふりほどくと、実は木の枝にひっかかっただけだったなんてことも。 よく舗装されたいい道路だけが道でなく、漫画じゃないけど、隣の家の中を通るものが道であることもある。マニュアル通りに接客していたら、かえって不快感を与えることもある。 一度、信じやすい自分を疑ってみることがいいのではないかしら?人間の思い込みのほかに、事物の眼差しというものもあるということに、思いを馳せてみたらいいのではないかしら?立ち止まって考える時間を確保したらいいのじゃないかしら? そんなふうに思っている日曜日でした。