以前もこのブログに同じことを書いたが、また思うのは、日曜は静かだということ。その静けさが心のすき間に沁み入るようで、どことなくひりひりする。感傷的になるのはこんな晩だ。
思えば幾晩こんな時間を過ごしたことだろうか?
そして、次の日には無くなるにせよ、どれだけの夢を描いたことだろうか?
人恋しくなるのもこんな夜で、だからこそここに書き綴っているのであろうか。
古いアルバムを見返したくなる時があるように、古い記憶のカケラが、こんなときふと顕れ出てくる。昔の友達。昔の建物。昔の感情。
一日前は聞き流していた音楽も、こんな日は心を揺り動かす。
テレビで見た老夫婦の慎ましい姿にじんとくる。
こういったものを、潜在的なものが現われ出てくると捉えるのなら、日常の生活は嘘やまやかしに塗りたくられているものなのだろうか?忙しさにかまけて、生きることに一生懸命で、武装しているものなのだろうか?
反対に、何も飾る必要がなく、誰からもせっつかれないこんな日曜日のほうが異常なものなのだろうか?
そう、たしかに記憶の中からでてきたものは、およそ動きのない写真のようなものであり、ある感情も恋慕も美化された嘘っぱちのものとも言えないこともない。死でさえも、こんな日は醜くない。
たとえば、ドラマというものが劇的な事件の連なりのように思えるのが、日常的な考えというならば、今夜のような考えを「日曜日の思想」とでもいおうか。その思想は、ドラマというものは、非劇的な、事物や記憶・意識の集成でもありうることを教えてくれる。
一見、月並な卒業式・送別会であったとしても、内部には激しいドラマが渦巻くこともあるし、激情すら抑制された微妙な意識というものもある。
そして、この曜日が教えてくれることは、わんわん泣きわめく別離というものよりも、感情が抑えられた中に出てくる小さな「おかしな行動」に彩られた別離のほうが、よりドラマと呼ぶにふさわしいものと思えることだ。激しい格闘よりも、家庭内の微妙な意識のズレなどのほうが、よりエキサイティングなものに思えることだ。
最初に、すき間という言葉を使ったが、大ざっぱな平日の手からこぼれ落ちるものが、心に受動的な空白ができる日曜日に滴り落ち、そこにもドラマが隠されていることが分かってきた。
きっと平日は動きすぎて・忙しすぎて・うるさすぎて、気づくことも気づかないだろうから、日曜日くらいは別な考えをしたいものだ。大切なものを思い出せるように。また、人生に均衡をもたらすために。
思えば幾晩こんな時間を過ごしたことだろうか?
そして、次の日には無くなるにせよ、どれだけの夢を描いたことだろうか?
人恋しくなるのもこんな夜で、だからこそここに書き綴っているのであろうか。
古いアルバムを見返したくなる時があるように、古い記憶のカケラが、こんなときふと顕れ出てくる。昔の友達。昔の建物。昔の感情。
一日前は聞き流していた音楽も、こんな日は心を揺り動かす。
テレビで見た老夫婦の慎ましい姿にじんとくる。
こういったものを、潜在的なものが現われ出てくると捉えるのなら、日常の生活は嘘やまやかしに塗りたくられているものなのだろうか?忙しさにかまけて、生きることに一生懸命で、武装しているものなのだろうか?
反対に、何も飾る必要がなく、誰からもせっつかれないこんな日曜日のほうが異常なものなのだろうか?
そう、たしかに記憶の中からでてきたものは、およそ動きのない写真のようなものであり、ある感情も恋慕も美化された嘘っぱちのものとも言えないこともない。死でさえも、こんな日は醜くない。
たとえば、ドラマというものが劇的な事件の連なりのように思えるのが、日常的な考えというならば、今夜のような考えを「日曜日の思想」とでもいおうか。その思想は、ドラマというものは、非劇的な、事物や記憶・意識の集成でもありうることを教えてくれる。
一見、月並な卒業式・送別会であったとしても、内部には激しいドラマが渦巻くこともあるし、激情すら抑制された微妙な意識というものもある。
そして、この曜日が教えてくれることは、わんわん泣きわめく別離というものよりも、感情が抑えられた中に出てくる小さな「おかしな行動」に彩られた別離のほうが、よりドラマと呼ぶにふさわしいものと思えることだ。激しい格闘よりも、家庭内の微妙な意識のズレなどのほうが、よりエキサイティングなものに思えることだ。
最初に、すき間という言葉を使ったが、大ざっぱな平日の手からこぼれ落ちるものが、心に受動的な空白ができる日曜日に滴り落ち、そこにもドラマが隠されていることが分かってきた。
きっと平日は動きすぎて・忙しすぎて・うるさすぎて、気づくことも気づかないだろうから、日曜日くらいは別な考えをしたいものだ。大切なものを思い出せるように。また、人生に均衡をもたらすために。
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