昨今のテレビドラマや映画、演劇、自分たちの稽古も含めてつねづね思うのだが、分かってはいても難しいこと、それは、沸騰させること。ぷくぷく沸き立つような、まるで活火山の地獄谷にいったかのような、危険な恐ろしさを感じさせるような場面というものを作るにはどうしたらよいのか? そう、わかってはいるのだ、そういう緊張度をはらんだ場面にこそ、わたしたちは魅力を感じるのだということを。そして、ただ本当らしく見えるだけで満足はしないということも。しかし、いざそれが制作・演技するとなると、わたしたちは、それらしく見えるというだけで充足してしまい、本当にそのものである場面の緊張を追及することをやめてしまう。 いったい何が違うのか?沸騰しているかいないのか、それが問題だ! 温泉に行っても、喫茶店に行っても、それぞれの適温からぬるければわたしたちは満足はしないはず。熱ければいいというわけでもないが、温泉なら少し高めのお湯に快感を感じるし、コーヒーは少なくとも舌をさすような熱さは最低限ほしい。 演技にしても同じだと思うんだな。ある雰囲気を漂わすだけなら簡単にできるが、まさにその人物がその状況でその行動をするということは、ある高い沸点を伴ってこそ初めて成立するのだ。そこに至るまでは役の人物のようでいて、実は役の人物ではない。水とお湯は区別されるように、ある沸点を超えてから初めて役の人物になれる。 それは俗的かもしれないが、テンションやボルテージといった言葉に還元される。ただ気持ちだけを高めればいい演技になるというわけではない。しかし、いい演技には必ずある高い気持ち・緊張度が伴っている。 そこを捉えなければいけない。激しい葛藤。正反対の観点の戦いだけでなく、さまざまな立場の違いによる表に表れない潜在的な観点の違い。それらがぶつかるときに摩擦が生じ、熱を発する。水は沸騰して熱湯になる。そんな熱い戦いが見たいものである。 少なくとも、たとえば靖国参拝についてはさまざまな立場の葛藤がドラマを作っている。どの立場もぐつぐつ煮立って、相手を非難できる態勢にある。 こうした熱いドラマが見たい。表現方法が熱いものは巷にあふれるが、本当に鋭い葛藤が地下でどうしようもなく渦巻いているような表現にであうことはめったにない。その高い沸点を目指さずに、われわれはどこを目指すのか?金か?名声か