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5月, 2007の投稿を表示しています

悩みをつきぬけて

生きることを考えている人と、考えながら生きる人は大違いだが、生きることを考えながら生きているのが実際なところだ。 唐突に謎々や禅問答や早口言葉のような書き出しをしてしまったが、ぼくが言いたいのはこういうことだ。 自分の人生の進路を考えている人はとても多いということ。 なんだ、だったら最初からそう言えよ、と反省。 ぼくの周囲のいろいろな人。みなそれぞれ自分の進路や結婚や家庭や両親のことを考えて、いままで歩んできた道から方向を変えていく。 ぼくもこれまで何度も何度も目指すところ、所属するところを変えてきた。その決断は、悩んだ末に思い切って踏み切ったことも幾度かあった。悩みになることは、普通の風邪のようにウィルスがあるということなので、それを撃退すればいい。 しかし、人生行路の悩みのウィルスは、そう易々と自覚できないところが苦しい。傍目に見れば病気は明白なのに、自分ではそれを認めたがらない。病気であること、ウィルスにも大いに価値があるのだから、否定はできないわけだ。つまり、今の生活にも意義はあるのだ。あなたは病気だよ、治したほうがいいよといってくれる人がいたとしても、認めたくないものだ。 ぼくは医者が嫌い、というよりは、病院に行くのが面倒くさいから、あまり医者にかかわりはないのだが、人生行路の悩みの病気の人も、やっぱり医者を必要としているのだなとは思う。職業としての医者でなく、医者のような役割をしてくれる人を。原因をずばりと確信をもって指摘してくれる人を。自分で認めたがらないのだから、他人が言ってやるしかないのだ。 今のぼくのように、公演をするという大きな目標があって、大幅な進路変更はできない人間は、幸か不幸か、悩むことから一時的に解放されていて、悩んでいる人をもどかしく思う。自分が悩んでいたときとはうってかわって、人に同情することを忘れてしまう。だから、今のぼくは最低だな、と自分にダメだし。そうでもしないと傲慢になってしまうから。 またいつ深い悩みに襲われるかわからない。 人それぞれにリズムがあって、悩む時期や機会がきた人もいれば、立ち止まらずに動き回る人もいる。最近とくにぼくの周囲が変化をとげているように思える。考えてみれば、ようやくぼくも周囲を分かることができたのかもしれぬ。前々から変化はあったのに、それに気がつかなかったのかもしれないな

不満だらけさ

今日、仕事で自転車に乗っているときに、ハイヤーのタクシーにひかれそうになった。怒ってどなって睨んだら、無視された。人をひこうとして何の謝りもないのだからな。おかしなことだ。 車に乗っている者は車同士には、合図をだしたり謝ったり譲ったりするが、歩行者や自転車に対しては、なんのコンタクトもしない。たかが車の力で加速しているに過ぎないのに、鼻高々なのだ。走る凶器が歯をむきだしにして怪我をさせなかったからといって、おとがめなしなのはいかがなものか? たしか法律では、歩行者をびっくりさせただけで違反のひとつになるんじゃなかったっけ? 車のクラクションもいらない。というか、歩行者や自転車に対してクラクションを鳴らしたら罰則にしようじゃないか。歩行者たちが抗議したいとき、大声で怒鳴るか、バンパーを叩くかしか方法がない。過激かもしれないが、抗議の形として、傷がつかない程度に車の側面に蹴りを入れるのを合法にしようじゃないか?交通弱者の声は車の中の人間に聞こえないのだから。 要するに、人間が機械を使って自分のキャパシティー以上のものをあやつるときに、慎重になれということ。謙虚になれということ。できないのなら、法律を大胆に変えること。車の通れない道を作ればいい。都内を大渋滞にさせてしまえばいいのだ。 表参道の交差点も車のスペースを狭くする計画があるらしい。だいたい、あんなに歩行者の多いところを今まで車優先にしてきたことのほうがおかしい。歩行者信号の時間も増やせ。青山通りを一車線ずつ歩行者と自転車にあけわたせ。 いい加減、車を優先する考えをやめなさい。交通のガードマンも車に気を使って、歩行者の足を止めるんだから、何を考えているのやら。 なんだか今日は愚痴大会になってしまった。しかし、これはいつも思っていること。そして多くの人が耐え忍んでいることだと思うがどうだろうか?

逃げ去る者

2006年の8月に行われた溝口健二の没後50年の国際シンポジウムの記録の本が、朝日新聞社から出版されていて、いままで見かけたことがなかったなと思ったら、2007年5月25日発行だった。まだ来てないじゃん!要するに新しく出版されたばかりなのね。溝口という名前を聞いただけで胸が高鳴るぼくとしては、うれしい買い物をした、しかも偶然に。 そこでのトークショーの記録に、芥川賞作家の阿部和重氏が溝口の映画評をしていて、溝口の映画の登場人物はみな移動している、逃げ回っているという指摘をしていた。なるほどおもしろい指摘だなと思いながら、連想したのが、映画が活劇というジャンルをもっていること、動き回ることが映画のダイナミズムを生み出すということ、そして、ぼくたちのワークショップで藤沢周平の『約束』をやったときに、男女の一方が逃げ、一方が追いかけるという構図が単純に成立したときに、俳優は役の人物になれたということ。 映画と運動、映画と自転車の関連を捉えたのは蓮見重彦だったか、山田宏一だったか、とにかく、映画のなかで動き回ることが映画を楽しくさせる要素であることは間違いない。画面のなかだけでなく、いわゆるロードムーヴィーのような旅の映画もなんであれほど郷愁を誘うのか? 溝口の映画で、大衆の場面、つまり、多くのエキストラを使っていると思われる場面での、ひとりひとりの人物の動きは秀逸だ。個々人がばらばらにその人物の生活をしているので、偽物の芝居をしている人間が見当たらない。各人が動き回るということ、ダンスのように軽やかに。 バレエが心理的な綾も、ひとつの歩行・ジャンプ・足や手の折り曲げの連続で表現するのは示唆的だ。 演劇のワークショップで気づいたのは、女が迫るときに男は逃げ女は追いかけ、逆に、女が諦めたら男が迫り、女は逃げ男は追いかける、そんな単純な行動線だ。そんなダンスで戯れながら、簡単に手を取り合わない、手を取り合えないことで、ドラマが深まっていく。逃げる者がいればそれを捕まえようと追う者は必死になる。策略も必要になる。肉体の動きに比例するように感情も高ぶってくる。 阿部氏の溝口評では、俳優たちは溝口の執拗なカメラから逃げ去る。逃げる者を追うものだから、長回しや移動撮影が必要になるというわけだ。溝口はストーカーのように執拗に俳優を追い詰める。 追いかけっこをしなく

結論からはじめるのか

結論は初めからはない。 それを分かっていても、最初に結論ありきという事はよくあることだ。 事態が、芸術の創造の場に起こると、それは致命的な頽廃につながると思う。 出来レースという言葉もあるように、オーディションの現場では結論が決まっていることはよくあるようだ。最近話題になったタウンミーティングがその最たる例で、導き出す結論はもう決まっていて、いかにそこにうまく行き着けるかということに腐心する。大衆を扇動するためのやらせやからくりも数え上げればきりがない。 議論する場では、論者は確信があって立場を動揺させないにしても、議論のなかで見つけ出せた中庸点を議論の結論とするのではなく、あくまで自分の論点に固執することは、生産的な議論とはいえない。 小説を読むにしても、戯曲をあたるにしても、批評家やメディアの意見や感想は大きく参考にするものである。演劇や映画も、評判や口コミや批評を参考にして自分でも観にいこうと考えることも少なくない。 だからといって、まるっきりその評判を鵜呑みにする人も多いとはいえないと思う。批評は批評、評判は評判、自分の目で確かめてというのが健全だ。 インターネットの発達で、信頼のおけるメディアの論評よりも、多数の人が同じ意見を持っているということに信頼をおいていたとしても、手で触って確かめてという過程は、主婦であろうが学生であろうが忘れることはない。 しかしだ。いざ自分が物を創造しようとしたときに、結論から入っていってしまう例にぶち当たるのはなぜだろうか? 戦争を扱った作品にそれが多い。また、殺人などの倫理的に結論が揺るぎないような事例にも多い。現在、戦争をしようなどと声高にいう人はいない。偽善的に有事のため、万が一のためと称して、政治的な改悪をする政府もあり、戦争をセンチメンタルに美化する風潮もある。いっぽう、戦争反対のための映画や小説も多くあり見るに耐えない。両者とも、結論からスタートしているから、最初の事件や契機のあとは、単なる論証にすぎないのだな。 微妙な問題をはらむのが特攻隊の問題で、今夜友人の出演している舞台をみてきたて、おもしろかったし情熱的に芝居に取り組んでいるのでいい舞台ではあったのだが、特攻隊員をどう捉えるかについての新しい発見や示唆は無かったので、情緒的には揺すぶられても、大満足というわけにはいかなかった。

新しい才能

演劇はつねに新しいものとの接触によって生まれる。新しい才能、まだ見出されていなかったり、環境によって見逃されている才能との出会いがなければならない。才能がなければいけないことはいうまでもない。そしていろいろな種類の才能があり、演劇への愛情とともにその能力を生かす分野に携わるようになる。 才能が出来高払いによって評価されることは、それが発揮される機会を著しく制限する。事業をやるのには元手が要るのだという論理だが、だいたい若い者にそういった資本があるだろうか?ここでいう資本とは実績のことである。実績のない者だからこそ新人であり、実績がないからこそ機会を求めるのだ。機会を求めているのに、実績がないことで機会を与えられないとすれば、いったいいつになったら実績をつめるのか? こうした問題が、劇団内部や国の補助金の配布に起こっている。伝統の保護や継承に関しては、ある程度認識が深まって、そういった活動を補助することはよく見受けられる。しかし、ある意味得体の知れない実験、新種の活動に関しては、それを無視して、ひとりでに成長するまでなんの援助も与えないと考えているとしか思えない。公的な保護は堕落をもたらすといえばそうかもしれないが、まったく機会が与えられないことは才能の芽をつぶす可能性もあることも確かだ。 演劇に限らず、若い才能は必要とされる。それを見つけ出すのは、その才能とともに歩くことでしか達成できない。「やってみたまえ、それから検討しよう」という態度ではなく、「やってみようか、話を聞かせてくれ」という協力的な働きかけをすべきなのだ。 名前の通ったもの、環境が整っているもの、顔かたちがいいもの、そんなのばかりを重用する人間は用心しなければならない。 それに反し、慎ましやかなファンという人種がいるのだが、それは自分の好み・意見を自分の判断の基準としているところに正しいところがある。そして、愛情をもって接している。新しい才能との出会いはそいういう土壌に芽生える。

新しい人

大江健三郎はその著書『「新しい人」の方へ』の最終章で「新しい人」を定義づけている。新約聖書のパウロの手紙で使われていたらしい。難しい対立のなかにある二つの間に、本当に和解をもたらす人として思い描いている。敵意を滅ぼし、和解を達成する人。 『ロミオとジュリエット』もそんな新しい人の出現と死によって、いがみあうふたつの世界が和解することになる。 この世界は放っておくと憎しみや敵意が正当化され、権利化され、当然視される。境界線を越えて侵入してきた者は、銃撃することが当たり前とされる。人間の心の境界線の場合も踏み越えて入って来られることに恐れを抱く。 境界線といえば、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の雪山を思い浮かべる。雪に覆われた国境を脱走兵が越えるのだが、警備兵は雪で見えない国境線を越えた途端に銃撃をやめる。越境したからだ。見えない国境線を越える前までは銃を向け、見えない国境線を越えた後は銃を下げる。その境界線は大いなる幻影というわけだ。何を根拠に敵意や攻撃をするのかは、まったくの曖昧なものだということ。 ルノワールの越境(フランス文学者の野崎歓が丁寧にルノワールの越境性を論じている)、ロミオとジュリエットの恋の越境、大江健三郎の「新しい人」、これらすべて、人間のちっぽけなエゴイズムや敵意を友愛の手で変革しようとする試みなのかもしれない。 新しい世界をもとめなければいけない。 真山青果の『お夏清十郎』のお夏も、清十郎も、与茂七も、お亀も、みな新しい世界を夢見たり、希望したり、託したり、踏み出したりしたのだ。いつまでも古い世界の古い人であることに居心地の良さを見出していてはいけない。 新しい人にならなければ。 ブレヒトも、戯曲を読むときに、新しいものと古いものを探せという詩を残している。 こうしてみると、世界を読み解く鍵が、その辺りに潜んでいるような気がしてきた。そしてつねにその鍵は無力ながらも、友愛にあふれ、平和的なものである。暴力や敵意やエゴイズムや領土欲を肯定する思想には、十分気をつけなければならないな。

イタリア

ジロ・デ・イタリアが始まった。この自転車レースがおもしろいのはテレビで見るイタリアの風景が美しいことだ。気候的にも暑苦しくもないので、選手たちの表情も幾分余裕がある。ピンク色のマリア・ローザのジャージも華やかだ。青い海に青い空、カラフルなジャージ、緑の自然。レースの展開もおもしろい。イタリア人ががんばる姿もおもしろい。 イタリアというと芸術のことがすぐに思い浮かぶ。オペラにせよ、音楽にせよ、彫刻、絵画、映画、そして演劇も。 ヴィヴァルディからヴェルディ、そしてモリコーネにいたるまで、音楽の分野では親しみやすく、美しいメロディが奏でられる。

運転手

今日は実家に高速バスで帰ったのだが、バスを降りるときにチケットをなくして、運転手と一悶着があった。出発の駅で予約したチケットのお金を払い、バスに乗り込むときもチケットを確認されたので、バスを降りるときぐらいチケットがなくてもいいものなのだが、そうはいかないらしい。 高速バスに乗るたびにチケットをなくすぼくは、今回もすんなり「なくさないでくださいね」で済むと思ったのだが、今日の運転手は曲者だった。 「なくしたものが出てきて、そのチケットを利用したら不正乗車になりますからね」だと・・・ 思わずあっけにとられたな。馬鹿じゃないのか、こいつは。そんなことが可能なんだ?そこまでチェックが甘いんだな。思ってもみなかった古チケットの利用方法だ。 人を犯罪人扱いか? おもしろいじゃないか。 最近そんな事件があったのかな。でも、予約時にチェック、乗車時にチェック、しかもチケットにきちんと日付まで記されているのだから、きちんと調べれば済むこと。チケットなくしたのはうっかりですまないものか?出発から降車まで、人数の入れ替わりはなく、同じ人間が運ばれているのにだ。 運転手の人格の問題だと思う。わざわざきついことを言う必要性がないのだ、この場合。偏見かもしれないが、高速バスの運転手に、感心することは一度もない。いざこざが多い。10回乗って半数近く、不快感を感じるのは異常じゃないか?しかも、高速バスに限ってだ。わからん。 特別なサービスはいらないが、不快感もいらない。 だれか運転手の肩をもんでやればいい。疲れているんだきっと。孤独なのかもな。 ま、でも、自分で殻にこもっているような運転手が多いように見受けられるが・・・ そんなこんなで実家に帰ってきた。

今日の世界はブレヒトによって再現できるか

ブレヒトの上演を見て、満足するものに出会ったことがない、という意見をよく耳にする。シェイクスピアの作品でもそうだ。 だいたい、現代演劇を観て満足することのほうが稀なのだ、といってはおしまいか。実際、友人の舞台や話題作でない限り、すすんで観ようと思う作品が少ないのは悲しむべきことなのか? 現代演劇が満足を与えられないからこそ、そこに立ち向かうものもいるだろうし、伝統演劇や交響楽団やハリウッドの話題作が、どれほどの満足と有意義を与えられるかは疑問をもって考えたほうがいい。 ぼくは、さまざまな古典が好きだし、そこにこそ多くの時間をさく。だから古典や伝統演劇や技術のしっかりした芸能を否定するつもりはないし、現代演劇を持ち上げるために他をおとしめる必要はあるまい。だが、古典は口当たりの保証された定番品だとしたら、現代演劇は新商品のようなもので、多くの試行錯誤が必要なのだ。実験と開発。そんな要素だけでも、この博打的な芸術に参与する意義はあるだろう。 そこで、また、ブレヒトに戻る。 ぼくも多くのブレヒト作品を観てきた。たしかに満足より不満足の感を起こさせる上演のほうが多かった。上演だけみればブレヒトなんて葬り去るべき作家なんだろうな。なぜ今ブレヒトかという疑問は身近なところからも聞こえてくる。 その、「今」という現代性の問題を優先して考えないと、ブレヒトは上演できない。これは現代演劇一般にあてはまる。おもしろいだけでは上演するには不十分なのだ。『三文オペラ』とか『ガリレイの生涯』などという文字をクリックしたら、現代性というページにリンクするべきなのだ。 ならば、現代性とは何なのか? 日々塗り替えられていく世界は新しい思想、新しい感情を生み出していく。その変化ある人間の過程を解き明かし、敏感で正確に現実を把握すること。ブレヒトもいうように、人間と社会の変革を捉えること。そんなことかもしれない。 ぼくは、戯曲や小説に、現代に見受けられる人間が描かれているだけでは物足りないと思う。また、登場人物を近ごろ見受ける人間のように解釈してしまうことも。 ハムレットは絶望的に先行きがない若者だが、人間的な可能性のふり幅は莫大なように感じ取れる。ハムレットを生きる人間としてとらえればそうなるであろうが、物語の人物、若者の典型という枠内でとらえれば、なんら可能性を感じさせな

夢十夜

今日、正確にいえば昨日は、暖かかったし、仕事も暇だったので、仕事の合間に夏目漱石の小説を読み進めることができた。 眠くならなければ百ページ以上読むこともできただろう。おまえは仕事中なにやっているのだ、おい、というわけだが、実際暇で待機しているのだから仕方ない。それにしてもぽかぽか陽気だった。 そう、夏目漱石、『夢十夜』。新潮文庫についている宣伝の紙、あれなんて言うんだっけ?映画『ユメ十夜』の映像シーンの写真が十点載せられているが、映画はみていないが、どうもパロディにしか思えなく、漱石の作品から受ける印象にあった写真は一枚もなかった。安っぽいというか、安易というか。宣伝写真一枚でこんなに印象を植えつけるものかと逆に関心してしまった。あの宣伝を見て、映画は観に行きたくはないな、ぼくは。 そう、「夏目漱石」の『夢十夜』。第三夜の話はちょっとした落語でもあり、またスリルのある話でもあり、人に人気があるのはうなずけると思った。 夢で見たという設定なのだが、十話通して読み終えると、これは夢で本当に漱石が見たものだというよりも、夢という形式を借りて漱石が創作・脚色したもののように思える。 そして、漱石の作品には夢ということ、またはそれを見ているときの状態、つまり誰かが寝ている場面が多く見出せる。『三四郎』での廣田先生の森の女、三四郎は熱にうなされ横たわる。『それから』での代助はユリの匂いのなかで昼寝をする。 この『夢十夜』は漱石的なお昼寝、夢というテーマが根元にある。 そして、いつもそうで、ここでもそうなのだが、漱石は夢の内容・そのつじつま・合理性には無頓着である。『夢十夜』の一話一話から漱石の無意識の働きを探り出そうとしても、あまり意味のないことのように思える。 脈絡のない話を意味づけるのは、夢からさめそうなとき、つまりまどろんでいるときなのだろう。だから、意識が半分働いているそんな状態のときは、夢はもう遠くに去っていて、それを思い出そうと必死に努力している。夢は夢自体の威力を失っている。しかし、脈絡のないままに放っておくと、夢は記憶にひっかからず、思い返すこと、さらには夢を見たことすら忘れてしまう。 『夢十夜』は、夢の論理と破格の間の位置を、見計らっているかのように思える。深入りせず、しかし物語性はあるように。 今夜はぼくはこれから寝ても、疲れすぎ

サルが勝っちゃった

注目していたフランス大統領選が終わって、サルコジが勝利した。彼について深くは知らないが、パッと見て判断する限り、「好かない奴」。 ぼくがフランスに留学していたときにも感じたが、フランスのアメリカ化。これはサルコジの勝利で加速するのだろうか?自国の文化に誇りを持つといって、アメリカ化を拒む風潮が強い最先端の国だからこそ、反動化のバネも強いのか、フランスのテレビタレントが使っていたアメリカ風英語の真似事は、その当時から鼻につくものだった。 かといって一般生活ではそんなことない、みんなフランス語を使い、フランスの文化とうなずけるような暮らしをしていた。ミッキーマウスはミケだし、わざと英語風にきざに話す人もいなかった。 言葉や文化は出入りを繰り返し、吸収・反発しながら発展するものだが、サルコジがトップにたったことで、その発展が意識的になされるようになるのか? それともサルコジの主張は、経済のグローバニズムの促進という観点だけなのだろうか? おそらく変化するなと思えるのは、イラクへの攻撃で世界に緊張が走ったときに、フランスやドイツが中心にアメリカ・イギリスに組しない勢力ができたことがあったが、そんなまともな主張をフランス政府が今後とれる可能性がなくなったことであろう。フランスの右派の動向というより、サルコジの人間性と主張を判断してだ。 フランス全土で暴動やデモが起こる理由はよくわかる。そしてその中心にいるのが学生たちだということも。フランスの歴史をひもとくまでもなく、学生たち、若者たちは無力でありながらも反抗すること、抗議することを武器としている。 学生たちの意見は正しいとは限らないし、単細胞なところもあるが、その反抗する行為に関しては決定的に正しい。 客観的にどうであろうが、反論すること、それを行為で表すことで、政府や受け取る側との対関係ができあがる。そこに葛藤や弁証法が生まれる可能性ができる。 あえて、何も知らないが、「反対!」と声高らかに宣言することが、社会にバネをもたらすのではないか、という超無責任で説得力のない意見を言っている。反対の理由はあとで必ず出てくる。権威には反対。大きいもの、強いもの、金持ちなのには反対しておけばいい。潜在的に頭にくるものたちだから。 フランスでのように暴徒が火をつける騒動は恐いが、表面上なにもないように見える平

内閣総辞職

怒りをこめてふり返れ! 大上段に構えてみたが、政治の話ではない。いや、ある意味政治かな? 新国立劇場の演劇研修所の公演を見てきた。国立の演劇学校だし、批判にさらされることは義務でもあるので、友達の公演のときは言いたくても黙っていることを、今回はおおっぴらに公言したい気分になっている。 それほどひどい芝居だったのである。ブレヒトの『三文オペラ』 判官びいきなので、金のない中で工夫して質素な舞台になる集団の公演は大目にみるのだが、今公演のように新国立の小劇場でやれるという恵まれた環境のもと、衣装も小道具も豊富で生演奏もついているとなると、どうしてもちくちく棘をさしたくなるものだが、それ以上の毒針でもって攻撃するのが妥当ではないか?なんて思えるほどの「すごい」舞台だった。 とはいっても、判官びいきの癖はぬけきれない。この大失敗の責任はスタッフにあると断言する。こんなふうに育てた親が悪いのだ。戯曲選び、演技方法、公演への取り組み方。国立の劇場だから、公の行政や司法に用いる権利を行使できるのであろうか?できるなら、さっそく、内閣にあたる所長、委員などの罷免を求める。ずらりと並んだ講師の名前は虚しく飾られている。今日観客として観に来ていた講師はどう見ていたのだろうか? 選挙で選んだわけではないが、リコール、過激になって退陣要求だ! 二年間なにしていたの?何を教えていたのか?やってはいけないことばかりやっているじゃないか、こどもたちは。癖ばかり露呈するか、芸と呼ばれる演技の化粧ばかり。感受性が問題なのに、そういった演技をするのが罪であるかのように、みんな芝居臭い。人間がいない、みんな芝居の嘘ばかり。演劇は芝居の真実を目指すのであって、芝居の嘘じゃない。舞台の上で役を生きることを目指している役者がいなかったんだな。みんなまったく別次元のところから、あらぬ方向へ向けて演技している。いや、演技というまい。 こんなことは、ある定まった環境や方向性があれば最初からクリアーした地点から出発できるのだ。つまり、この研究所には定まった方向性や、最低限の演技の質の統一見解がなかったことになる。こんな指導者たちに国立の養成所を任せてもいいのだろうか? 今公演に携わったスタッフの名前は豪華だし、出てきた小道具・衣装も立派だし、生演奏もついているから余計に頭くるのかな?一緒に

ゴドーを待ちながら

いよいよゴールデンウィークも終わるというのに、風邪ぎみで体調がよろしくない。ずっと、家の中でひとりでいる生活も今日で終わりだというのに。 ひとりといっても、何気にいろいろ外出したり、電話したり、メールしたりはしていたな。まあ、社会と音信を絶つ意志は全然なかったし、そんな意固地な実験を試みるほどの勇気もなかった。 フランスにいたときも家にこもることが日課となった時期があった。そのときも、生活のために食料を買いにいったり、友人が訪れてくることもあったので、絶対な孤独という状態にはならなかった。 この日本で、今、生きるということは社会に顔をだすようにできているのではないだろうか?ひきこもりたいがために食料に困り、死んでみる勇気のある人ははたしているであろうか? 生活のためにあくせくすることを否定することはできない。 かといって、あまりにも生活をすること、生計をたてることに執着しすぎるのもどうかとぼくは思う。収入を基本に考えたら、問題にもならないほどの微々たる収入しかない職業もある。収入が不安定な職業もある。そんな職業を金にならないといって切り捨てたら、この世の中にどんな文化が生き残れようか? 経済優先主義、グローバリズム、市場主義。残るのはざらざらした、脂ぎった、冷たい心の、戦略家しかいなくなるのではないか? 大げさかな? 一本気な孤独でもなく、趣味的な人生でもなく、経済的な生き方でもない生活というものは可能だろうか? 生計をたてるために大きな制限を設ける生き方でなく、かといってそれを否定して極端にまで職業を否定したりしないで。 こうして迷っていると出てくるのが、詐欺師たちなんだな。金になる上手い話があるよとか、生活に困らないで目標とすることをやれるとか、甘い話を持ちかけてくる。 一気に解決を求めないほうがいいのかもな。独断が一番いけない。 最低限の慎ましやかな幸福のために生活に苦労しながら、そのときを待っている人が一番正しいのかもしれない。 休日のために、平日は身を粉にしながら働く生活はざらにあるが、素晴らしいじゃないか。 ベケットじゃないが、ゴドーは何かのために待っていることそのこと自体が尊いのではないだろうか?

グルッポ

お昼にテレビで、ある演劇のユニットの座談会のような番組を見た。北海道出身の五人組で、結成から現在の成功までの経緯を語っていた。 時折流される舞台の映像はたいしたものではなかったが、取り組む姿や演劇への情熱はひしひしと感じ取れた。 そこで思ったのだが、この五人が信頼して共同で物事を作り上げることに楽しみを見出しているということが、活動が継続していることや、大きくなっていくことにつながったのだろうと感じ取れた。 ぼくが舞台の公演を初めてやり終えたとき、小さい俳優養成所だったが、この仲間と一緒に舞台を作り終えた達成感と、それまでの日々の過程の困難や喜びを共有したことで、その後アルバイトに戻って生活している状態を虚しく感じる結果になってしまった。稽古・公演期間があまりに楽しかったから。 こういった感情は、特に、若い人、経験のない人に多いのだろうか、経験を積んだ俳優からはそんな感想を聞くこともない。 小学校のときの林間学校や、中学校のときの部活動の終わりにも敏感に寂しさを感じた。 小さいころ、親戚が一日集まって別れたその後の車のなかでは、陽気になることはできなかった思い出がある。 小学校時代、先生を中心にクラスがまとまった雰囲気をもっていた5,6年生の同級生には、会うことはないにしても、特別な感情を今でも持っていることは確かだ。 何かをやるために、また、同じ意志をもってまとまって行動することは、そんな感情も共有できるのだろうな。 逆にいうと、そういった同じ感情を共有できない集まりは、ただの集まりでしかなく、単なる仕事のようなものなのだろう。 同じテーブルにつきながら、孤独に自分のことだけをしている状態は、ある意味容易にできることなのかもしれない。それだからこそ、コミュニケーションをはかることを第一の任務としなければいけない。 人間は孤独に自分の人生を歩むものだからこそ、余計に協力しあうことを学ばなければいけない。 結婚とはそういうものなのかは、ぼくは知らない。しかし、この意見を否定する人も信用はできない。 人生の初春の時期であるこどもたち、彼らはその過程で何度も融合・離散、つまり小さな結婚を繰り返しているのだと思いたい。 大人にしても同じような過程をへて何が悪いだろう? 害悪となる個人主義は捨て去るのがよい。 胸を張って、「これはわた

怠惰の擁護

このゴールデンウィークはひきこもり宣言をしていて、家からあまり出ないようにしている。それでも何かと用事ができて外出するのだが、そうしたときに感じる街の様子は、普段仕事やらで外出しているときに見える世界とは違っている。目的もなしに、もしくは目的はあっても時間に拘束されないで、普段見慣れている通りを歩いていると、感じるものが違ってくるのはなぜなのだろうか? たとえば、顔をなでる風を愛撫と感じられるのが今のヴァカンスの状態であったとすると、用事にせかされているときに顔に当たる風は障害であったり、強い弱い、暖かい冷たい風でしかない。 周囲から聞こえてくる音にも心がやすまるこの黄金週間にたいして、今度の月曜日からは自分の必要な音しか取捨選択しないだろうことは容易に想像がつく。 日曜日はきっと雨だろうが、そんな雨も不快に思わないだろう。 思い起こしてみれば、大学時代のあの時間の緩やかさは、考えることを学ぶ時期としては適当なものだった。授業が終わればそのあとの用事は自分次第。一時限分あいだが空こうものなら、その空白の時間が豊かな彩りをもつように感じられた。 旅行をしているときもそうだったな。どこに行こうか決めないで、そのときの気分次第で時間を使う。もったいないとも思わないほど、時間を贅沢に活用していた。そんなときは、旅人の常でもあるが、穏やかな気持ちになれて、周囲の世界をとても楽しげに享受していたものだ。 かといって、ずっと休んでいるわけにもいかないのは十分承知している。 そして、怠惰にも休みを満喫しているからこそ、こんなことを思いつくことも知っている。また、こんなにゆったりと感じたことが、幸福であることも。 ジャン・ルノワールではないが、怠惰の擁護をしてみたくなるものだ、こんな日は。 「怠惰とは今や失われつつある人間的価値である・・・それは人間や物事にたいする一種の優しい気持ち、愛情と密接に関係した喜びである。ところが、あまりあくせくと活動していると優しい気持ちなど壊れてしまう。働きすぎる人に愛するための時間などない。そして愛なくして文明はないのだ」 (J・ルノワール) まだまだたっぷり時間はある。いいね、こんな日の世界は。

ときにはささやかに・・・

フランスの大統領選決選投票が間近にせまっている。 どうも、あの猿のようなサルコジの典型的なフランス人気質と、鈍重なロワイヤルの性別に訴えるやり方の、両候補の対決には、変革のきざしは感じ取れないのだが・・・ まあ、表面とメディアだけで判断してはいけないから、これは印象にすぎない。 どの国の政治家にもいえることで、非常にもったいぶった話し方が気に障るのだが、フランスの政治家の演説は一語一語かみしめるように、くっきりと一つ一つの単語を際立たせるように発音しているように思える。 たしかに、意味は把握しやすいのだが、音的に耳障りなんだな。 伝統的な朗誦法なのだろうが、そんなデクラメーション的な言い方をされると、嘘っぽく感じてしまうのも事実だ。 コメディーフランセーズの映画を観ても同じようなことを感じた。 日本で、そういった一語一語に力をこめた朗読をする人の代表格は江守徹だろうう。あの人のナレーションや朗読は聞きやすいし、意味が明確に把握できて、さすがだなと思うのだが、ときどきやりきれない思いにかられる。それは、文章を読み上げるときに感じることはなく、舞台やテレビで演技をしているときに感じることが多い。あまりに言葉に重点がおかれすぎて、実際に見える江守とのギャップが大きく感じるからだろうか?声だけが先走りしているように思えるのだ。 ことばは重要だ。これはどの職業でも、どんな人でもその意味をかみしめているだろう。あえてことばと実際の人間のしていることの比較をする気にはなれない。だいいち、そんなことをしても意味がない。 しかし、ことばに重点が置かれすぎて、人間の姿とかけ離れてしまうのは用心したほうがいい。 赤い靴だけが目立つ女性を街でみかけることが案外多いのだが、なぜそのとき、ぼくの意識は赤い靴にいってしまうのだろうか? なぜ、吹き替え映画に違和感を感じることが多いのか? 外国語会話の番組はなんでああも特殊な雰囲気をかもしだすのか? もういちど、人間であることを取り戻すために、ぶっきらぼうに喋ること、ささやかに喋ることを試してみるのがいいのかも・・・ それは、また別の害悪、超自然主義、平均化に陥る危険性もあるが、はっきり話しすぎる人には効果があるだろう。 反対に、ぶつぶつ話す人、あまりにだらけた話し方をする人には、サルコジや江守の話し方を学ん

硝子戸の中・外

たった今、夏目漱石の『硝子戸の中』を読み終えた。 友人のお気に入りの作品のようで、ぼくも手にとってみた。 作家である漱石が、講演を依頼されたり、話を聞いてくれとお願いされたり、俳句をつくってくれと頼まれたりし、漱石はひとつひとつそれに応えようとささやかな努力をしている。成功に終わったり、気まずい思いをしたり、不快になったりと、結果はまちまちだが、漱石がそこで、読者の要望に応える努力をしているところに興味をもった。 ぼくは、あの映画はよかったよ、この本は読んでみるべきだとよく人から勧められるが、時間をあけるうちに機会を失い、意欲も失ってしまうことが多い。今回は素早く行動したおかげで残念な結果にならなくて済んだ。そして、鮮度が新鮮なうちに読んだことで、友人がどこに興味をもってこの本を読んだのかが、分かりかけたような気がした。自分の読書という以上に、他人の読書感も取り込んだと思えたのは錯覚だろうか? 影響を受けることに機敏で、人に勧められるが否かすぐに物事に取りかかれる人がいる。もともと、ひとりの人間の興味の範囲も、知識の範囲も狭いに違いない、せっかく勧めてくれる人がいるのだ、試してみようという好奇心と行動力。 そんな反応の素早さは神々しいくらいだ。 反対に、時間が空いたときでいいや、明日があるさ、後回しにしようとか言って、自分の仕事に没頭することで、どれだけの新鮮さを失っていくのだろうか?自分のやらなければいけないことは、かえって、今やらなくてもいいことなのかもしれない。影響を受けたと同時に、そちらのほうに取りかかるべきなのではないか? 小説にせよ、映画にせよ、演劇にせよ、表現とはコミュニケーションの場を提供することにほかならない。漱石でさえ一方通行で終わらせようとはしない。 物語として緻密に構築されていて、どこにも取りつく術がないような作品であろうと、どこかに入口があり、そこから自由に意見や想像力が出入りしているものだ。 そして良い作品というのは、そういった扉が豊富に用意されて、どんな人にも開け放たれている作品なのじゃないかと思う。 一番いいのはそこでお茶を飲みながら談笑できるような、開放されたロビーをもつ作品なのじゃないか? 閉塞した作品は、読者が中に入ろうとしても入れないし、作家は中から出られない。 だからこそ! 大いに隙をつくる

話は飛躍してばかりだが・・・

今日はいい天気だったので、友人とオープンテラスでお茶しながら、いろいろな話をした。 月曜日に2日目のワークショップも終わり、その運営や方法の気になった点をダメだししてもらった。痛いところをつかれて、やはり今回のワークショップは、自分でも試行錯誤を繰り返したこともあり、成功とはいえなかったと反省している。テキストにより本質的にせまる迫り方を、見つける作業に難航した。 ありがたい指摘を受けて、これからも実験は繰り返していきたい。 今日も思ったが、人と話をすることで自分の考えがどんどんまとまっていくこと。これはクライストも言っていたっけな。人にわかってもらえるように言葉を選んでいくうちに、考え方にピンと糸が張るようになる。相手の返事や考えも混ぜ合わせにして、自分の考えというものができあがる。あいずちや口はさみは大いに結構だ。人と話すことが大事で、独白じゃない。 そもそも純粋な自分独自の考えなどというものはありえないし、仮に考えに特許があったとしてもそんな特許になんの魅力があろう?ぼくの考えが相手に納得してもらえなければ、そんな“純粋な”考えが何の役にたつ? ぼくの考えは、わたしたちの考え、こんなふうに複数で共有できてこそ価値をもつものだろう。 共感のできない会話はつまらない。お互い好きなことだけいって相手のことばを聞いていない人がいるものだ。かと思うと、じっくり聞いているように思えるが、意見を聞きだすと、見当違いの話題を返してくる人もいる。 とても魅力的なのは、会話はワルツを踊るように、軽く、絡みながら、動いてとどまるところがない、しかも卓見が飛び出す、そんな会話だ。表層を流れていながら、深層に潜ることは忘れていないという・・・ ダンスをしましょうと誘うときは、もうその人はダンスをしているような足取りになる。そんな準備ができていないで、たとえば寝そべりながら、ダンスをしようと誘っても、相手は本気にするまい。 会議をするときは真剣な雰囲気、世間話をするときは平凡な活動中、そして軽やかに近況を伝え合うときは軽やかに構えるものだ。 そのときどきの礼儀の作法があるようだ。それにのっとらなければ、会話は無作法になる。 ぼくは、無作法にも、爆弾をなんども破裂させてきたし、それを恐れて沈黙に陥ったこともあった。 それでも思うのは、礼儀を守る余り、また

行動を!

思い煩いは行動することによって、杞憂であることに気づくことが多い。悲観的に、何もかも悪い方向に考えることによって、行動はますますと遠のき、心配はますます増える。にっちもさっちも行かなくなる。 こうしたときに、頭ごなしに説教されるのは逆効果である。「なんでやらないの?」。 できないと思うことが物事を不可能にしているのだが、そういうときは意固地になってできないのだと思い込んでしまう。 できないけれどもやってみる。まあ、不可能だとは思うけど、やることだけはやる。ようは行動に移すことが肝心なのだ。 一度動き出してしまうと、先ほど考えていた悲観的なことはすっかり問題にならなくなる。実際上の困難、技術的な困難が目の前にたちはばかると、やれるやれないは二の次で、どうすればやれるかを考えるようになる。こうなればしめたものだ。 ぼくは、以前から、そしていくぶん現在も、電話をかけることに躊躇することが多い。単に友達に元気かと電話をするときほど、その抵抗が大きい。 かけなければいけないときは、すぐに行動に移せるのだが、かけてもかけなくてもいいときや、別段今かけなくてもいいときなどには、行動に移すまでに、いろいろと考えこんでしまう。 恐怖症みたいなものかもしれない。 しかし、すぐにでも電話をしなければいけないと決めたら、あっけらかんに、すばやく、なんの恐怖もなく電話をかける。 想像力が邪魔立てしているのだ。 恐怖はそこに恐怖があると思い込むことによって増長する。 一歩先が崖だというのは、自分の目と、経験と、周囲の注意の声で気づくことになる。おそらく肉体がまったをかけるのだろう。 しかし、その先が崖だと知らないで悠々と突っ込んでいってしまう人に、恐怖や立ちすくみはあるのだろうか? 自転車ですっこけて救急車で運ばれたときがあった。たいした傷でもなく、救急車の乗り心地を楽しんでいるぐらいだった。家族は心配な顔つきで、病院に迎えにきてくれた。そのとき初めてぼくは怪我人として深刻にならざるを得なかった。 顔の傷と、肩と膝の傷。そして現場に置きっぱなしになった自転車。ただそれだけで、想像力の入り込む余地がなく、目の前の、病院の様子にだけ気をとられていたぼくが、そのとき初めて事故にあったかのようだ。 とりあえず行動してみよ! 結果には無頓着であれ! 終わってか