生きることを考えている人と、考えながら生きる人は大違いだが、生きることを考えながら生きているのが実際なところだ。 唐突に謎々や禅問答や早口言葉のような書き出しをしてしまったが、ぼくが言いたいのはこういうことだ。 自分の人生の進路を考えている人はとても多いということ。 なんだ、だったら最初からそう言えよ、と反省。 ぼくの周囲のいろいろな人。みなそれぞれ自分の進路や結婚や家庭や両親のことを考えて、いままで歩んできた道から方向を変えていく。 ぼくもこれまで何度も何度も目指すところ、所属するところを変えてきた。その決断は、悩んだ末に思い切って踏み切ったことも幾度かあった。悩みになることは、普通の風邪のようにウィルスがあるということなので、それを撃退すればいい。 しかし、人生行路の悩みのウィルスは、そう易々と自覚できないところが苦しい。傍目に見れば病気は明白なのに、自分ではそれを認めたがらない。病気であること、ウィルスにも大いに価値があるのだから、否定はできないわけだ。つまり、今の生活にも意義はあるのだ。あなたは病気だよ、治したほうがいいよといってくれる人がいたとしても、認めたくないものだ。 ぼくは医者が嫌い、というよりは、病院に行くのが面倒くさいから、あまり医者にかかわりはないのだが、人生行路の悩みの病気の人も、やっぱり医者を必要としているのだなとは思う。職業としての医者でなく、医者のような役割をしてくれる人を。原因をずばりと確信をもって指摘してくれる人を。自分で認めたがらないのだから、他人が言ってやるしかないのだ。 今のぼくのように、公演をするという大きな目標があって、大幅な進路変更はできない人間は、幸か不幸か、悩むことから一時的に解放されていて、悩んでいる人をもどかしく思う。自分が悩んでいたときとはうってかわって、人に同情することを忘れてしまう。だから、今のぼくは最低だな、と自分にダメだし。そうでもしないと傲慢になってしまうから。 またいつ深い悩みに襲われるかわからない。 人それぞれにリズムがあって、悩む時期や機会がきた人もいれば、立ち止まらずに動き回る人もいる。最近とくにぼくの周囲が変化をとげているように思える。考えてみれば、ようやくぼくも周囲を分かることができたのかもしれぬ。前々から変化はあったのに、それに気がつかなかったのかもしれないな