大江健三郎はその著書『「新しい人」の方へ』の最終章で「新しい人」を定義づけている。新約聖書のパウロの手紙で使われていたらしい。難しい対立のなかにある二つの間に、本当に和解をもたらす人として思い描いている。敵意を滅ぼし、和解を達成する人。
『ロミオとジュリエット』もそんな新しい人の出現と死によって、いがみあうふたつの世界が和解することになる。
この世界は放っておくと憎しみや敵意が正当化され、権利化され、当然視される。境界線を越えて侵入してきた者は、銃撃することが当たり前とされる。人間の心の境界線の場合も踏み越えて入って来られることに恐れを抱く。
境界線といえば、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の雪山を思い浮かべる。雪に覆われた国境を脱走兵が越えるのだが、警備兵は雪で見えない国境線を越えた途端に銃撃をやめる。越境したからだ。見えない国境線を越える前までは銃を向け、見えない国境線を越えた後は銃を下げる。その境界線は大いなる幻影というわけだ。何を根拠に敵意や攻撃をするのかは、まったくの曖昧なものだということ。
ルノワールの越境(フランス文学者の野崎歓が丁寧にルノワールの越境性を論じている)、ロミオとジュリエットの恋の越境、大江健三郎の「新しい人」、これらすべて、人間のちっぽけなエゴイズムや敵意を友愛の手で変革しようとする試みなのかもしれない。
新しい世界をもとめなければいけない。
真山青果の『お夏清十郎』のお夏も、清十郎も、与茂七も、お亀も、みな新しい世界を夢見たり、希望したり、託したり、踏み出したりしたのだ。いつまでも古い世界の古い人であることに居心地の良さを見出していてはいけない。
新しい人にならなければ。
ブレヒトも、戯曲を読むときに、新しいものと古いものを探せという詩を残している。
こうしてみると、世界を読み解く鍵が、その辺りに潜んでいるような気がしてきた。そしてつねにその鍵は無力ながらも、友愛にあふれ、平和的なものである。暴力や敵意やエゴイズムや領土欲を肯定する思想には、十分気をつけなければならないな。
『ロミオとジュリエット』もそんな新しい人の出現と死によって、いがみあうふたつの世界が和解することになる。
この世界は放っておくと憎しみや敵意が正当化され、権利化され、当然視される。境界線を越えて侵入してきた者は、銃撃することが当たり前とされる。人間の心の境界線の場合も踏み越えて入って来られることに恐れを抱く。
境界線といえば、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の雪山を思い浮かべる。雪に覆われた国境を脱走兵が越えるのだが、警備兵は雪で見えない国境線を越えた途端に銃撃をやめる。越境したからだ。見えない国境線を越える前までは銃を向け、見えない国境線を越えた後は銃を下げる。その境界線は大いなる幻影というわけだ。何を根拠に敵意や攻撃をするのかは、まったくの曖昧なものだということ。
ルノワールの越境(フランス文学者の野崎歓が丁寧にルノワールの越境性を論じている)、ロミオとジュリエットの恋の越境、大江健三郎の「新しい人」、これらすべて、人間のちっぽけなエゴイズムや敵意を友愛の手で変革しようとする試みなのかもしれない。
新しい世界をもとめなければいけない。
真山青果の『お夏清十郎』のお夏も、清十郎も、与茂七も、お亀も、みな新しい世界を夢見たり、希望したり、託したり、踏み出したりしたのだ。いつまでも古い世界の古い人であることに居心地の良さを見出していてはいけない。
新しい人にならなければ。
ブレヒトも、戯曲を読むときに、新しいものと古いものを探せという詩を残している。
こうしてみると、世界を読み解く鍵が、その辺りに潜んでいるような気がしてきた。そしてつねにその鍵は無力ながらも、友愛にあふれ、平和的なものである。暴力や敵意やエゴイズムや領土欲を肯定する思想には、十分気をつけなければならないな。
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