今日はいい天気だったので、友人とオープンテラスでお茶しながら、いろいろな話をした。
月曜日に2日目のワークショップも終わり、その運営や方法の気になった点をダメだししてもらった。痛いところをつかれて、やはり今回のワークショップは、自分でも試行錯誤を繰り返したこともあり、成功とはいえなかったと反省している。テキストにより本質的にせまる迫り方を、見つける作業に難航した。
ありがたい指摘を受けて、これからも実験は繰り返していきたい。
今日も思ったが、人と話をすることで自分の考えがどんどんまとまっていくこと。これはクライストも言っていたっけな。人にわかってもらえるように言葉を選んでいくうちに、考え方にピンと糸が張るようになる。相手の返事や考えも混ぜ合わせにして、自分の考えというものができあがる。あいずちや口はさみは大いに結構だ。人と話すことが大事で、独白じゃない。
そもそも純粋な自分独自の考えなどというものはありえないし、仮に考えに特許があったとしてもそんな特許になんの魅力があろう?ぼくの考えが相手に納得してもらえなければ、そんな“純粋な”考えが何の役にたつ?
ぼくの考えは、わたしたちの考え、こんなふうに複数で共有できてこそ価値をもつものだろう。
共感のできない会話はつまらない。お互い好きなことだけいって相手のことばを聞いていない人がいるものだ。かと思うと、じっくり聞いているように思えるが、意見を聞きだすと、見当違いの話題を返してくる人もいる。
とても魅力的なのは、会話はワルツを踊るように、軽く、絡みながら、動いてとどまるところがない、しかも卓見が飛び出す、そんな会話だ。表層を流れていながら、深層に潜ることは忘れていないという・・・
ダンスをしましょうと誘うときは、もうその人はダンスをしているような足取りになる。そんな準備ができていないで、たとえば寝そべりながら、ダンスをしようと誘っても、相手は本気にするまい。
会議をするときは真剣な雰囲気、世間話をするときは平凡な活動中、そして軽やかに近況を伝え合うときは軽やかに構えるものだ。
そのときどきの礼儀の作法があるようだ。それにのっとらなければ、会話は無作法になる。
ぼくは、無作法にも、爆弾をなんども破裂させてきたし、それを恐れて沈黙に陥ったこともあった。
それでも思うのは、礼儀を守る余り、また会おうと口では言いながら精神は眠っている状態の、そんな別れ方を、わたしたちは何度も繰り返しているのはなぜだろう?
まるで、起きるよといいながら蒲団に入ってしまう冬の日の朝のような、そんな裏腹のことをどうして平気でしてしまうのか?
たしかに、口約束は風化していく。誰も風化をとめようとはしないで、朽ちるままに関係を放り投げておく。
しかし、こんなこともある。
5年後のこの日、この時刻に、この場所で会おう、といって別れた、藤沢周平『約束』の幸助とお蝶。ぼくたちはこんな約束ができるのか?できるとしたら、なぜできるのか?ふたりを再会に導いたのは何なのか?
こうしてまた愛の話に収斂していく。
話しながら考えがここにまとまっていったのか?愛は語っても語りたりない。
そして、『約束』はワークショップの題材でもあった。
月曜日に2日目のワークショップも終わり、その運営や方法の気になった点をダメだししてもらった。痛いところをつかれて、やはり今回のワークショップは、自分でも試行錯誤を繰り返したこともあり、成功とはいえなかったと反省している。テキストにより本質的にせまる迫り方を、見つける作業に難航した。
ありがたい指摘を受けて、これからも実験は繰り返していきたい。
今日も思ったが、人と話をすることで自分の考えがどんどんまとまっていくこと。これはクライストも言っていたっけな。人にわかってもらえるように言葉を選んでいくうちに、考え方にピンと糸が張るようになる。相手の返事や考えも混ぜ合わせにして、自分の考えというものができあがる。あいずちや口はさみは大いに結構だ。人と話すことが大事で、独白じゃない。
そもそも純粋な自分独自の考えなどというものはありえないし、仮に考えに特許があったとしてもそんな特許になんの魅力があろう?ぼくの考えが相手に納得してもらえなければ、そんな“純粋な”考えが何の役にたつ?
ぼくの考えは、わたしたちの考え、こんなふうに複数で共有できてこそ価値をもつものだろう。
共感のできない会話はつまらない。お互い好きなことだけいって相手のことばを聞いていない人がいるものだ。かと思うと、じっくり聞いているように思えるが、意見を聞きだすと、見当違いの話題を返してくる人もいる。
とても魅力的なのは、会話はワルツを踊るように、軽く、絡みながら、動いてとどまるところがない、しかも卓見が飛び出す、そんな会話だ。表層を流れていながら、深層に潜ることは忘れていないという・・・
ダンスをしましょうと誘うときは、もうその人はダンスをしているような足取りになる。そんな準備ができていないで、たとえば寝そべりながら、ダンスをしようと誘っても、相手は本気にするまい。
会議をするときは真剣な雰囲気、世間話をするときは平凡な活動中、そして軽やかに近況を伝え合うときは軽やかに構えるものだ。
そのときどきの礼儀の作法があるようだ。それにのっとらなければ、会話は無作法になる。
ぼくは、無作法にも、爆弾をなんども破裂させてきたし、それを恐れて沈黙に陥ったこともあった。
それでも思うのは、礼儀を守る余り、また会おうと口では言いながら精神は眠っている状態の、そんな別れ方を、わたしたちは何度も繰り返しているのはなぜだろう?
まるで、起きるよといいながら蒲団に入ってしまう冬の日の朝のような、そんな裏腹のことをどうして平気でしてしまうのか?
たしかに、口約束は風化していく。誰も風化をとめようとはしないで、朽ちるままに関係を放り投げておく。
しかし、こんなこともある。
5年後のこの日、この時刻に、この場所で会おう、といって別れた、藤沢周平『約束』の幸助とお蝶。ぼくたちはこんな約束ができるのか?できるとしたら、なぜできるのか?ふたりを再会に導いたのは何なのか?
こうしてまた愛の話に収斂していく。
話しながら考えがここにまとまっていったのか?愛は語っても語りたりない。
そして、『約束』はワークショップの題材でもあった。
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