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危機と文化

不況の影響が新聞やテレビをにぎわせない日はないというくらい、毎日のように、解雇や工場閉鎖、雇用打ち切りの発表がされている。立場の弱い人ほど不況のしわ寄せをこうむる。日本の芸術家はそのなかで万年失業状態なのを知る人は多いだろうか。 2月4日に東京・池袋で、日米仏の文化システムを考えるシンポジウムが開かれた。パネリストには、フランス元文化大臣や仏人ジャーナリスト、平田オリザ氏などが参加した。フランスとアメリカと日本の文化制度の違いを検討し、日本の文化・芸術制度が今後どう進展していけるか、可能性をさぐる試みだった。 朝日新聞の外岡秀俊氏はある論点を提起した。経済危機のなかで文化制度はどういう状況を見いだすか。アメリカの大不況のときに、ルーズベルト元米大統領はニューディール政策を実施し、不況をうまくおさえこんだ。フランスでも1981年にミッテラン大統領が就任したときは深刻な経済状況だったらしい。おもろいことに、ルーズベルトもミッテランも、そんな大不況の時期に大胆な文化政策をして、それが現在の米仏の文化政策の基礎となっている。 1935年の米「連邦劇場計画」も、1981年のミッテラン就任とともにはじまったフランスの文化予算倍増も、経済危機の時期に行われた。シンポジウムに参加した元仏文化省大臣のラング氏は、その右腕として、緊縮財政のなかで今回の文化予算の倍増をおこなった立役者である。 「100年に一度」の経済危機というキーワードが頻発する昨今だが、似た状況のなかでアメリカは芸術家支援計画「フェデラル・ワン」を行い、フランスは劇場や芸術にお金を投資しつづけた。これはおおいに見習うべきヒントなのではないだろうか。まっさきに削られるのが文化施設の予算であってよいのか。 「若い芸術家を信じ、未来に投資すべき」ラング氏が語気を強くして述べていたのが印象的だった。

感傷は敵

「感傷」という意味を、独自の説明で有名な新明解国語辞典で調べてみた。それによると「ちょっとした外界の刺激で発現する、物思いや悲哀の情、また甘美の思いにふけるなどの心的状態」という少し笑えてしまう説明がされていた。 この1週間で2つの演劇をみてきたのだが、両方ともとてもよい印象を受けた。ひとつはコメディ、もうひとつは生死を扱ったドラマで、強く訴えかけるものがあった。俳優たちが熱心に演じてくれた劇に、ためらいもなく拍手をおくることができた。 だが、あえて余計なことをいうと、感傷が目立つ。両作品に限ったことではなく、戯曲・脚本の書かれ方が感傷的な方向にかたむく作品が多いのは気のせいだろうか。好みはそれぞれで、センチメンタルな涙やささいな心理の綾を好むひともいる。「いい作品なのに感傷的だった」というと全体がマイナスな印象をもつので、「感傷的なのに、いい作品だった」と表現したい。「感傷的」であることが、いい作品の欠点であるのか。 両作品および一般の戯曲・ドラマに多くみられる感傷はこんな気をおこさせる。「どこかで見たこと、聞いたこと、感じたことあるな」と。たとえば、二人の男女が恋をする場面で、セリフや行為にはっと驚くことが少ない。テレビドラマで使われた類型的な恋愛表現のように思えるのだ。実際に恋愛している男女はそれほど単純ではないだろう。 俳優の演技については問わない。戯曲や脚本がどこまで生の人間のことばや行為に迫れるか、この点がいくぶん欠けているように思える。物語はうまいし、視点もたしかなのだが、実際に生活している人間を掘り下げるまでには至っていない。 「ちょっとした外界の刺激」をくすぐるような感傷的な作品から脱却することは並大抵のことではない。少ない劇作家だけが人間ドラマにまで到達した作品を残している。感傷は敵。こころを強くゆさぶるドラマを見たい。