ブレヒトの上演を見て、満足するものに出会ったことがない、という意見をよく耳にする。シェイクスピアの作品でもそうだ。
だいたい、現代演劇を観て満足することのほうが稀なのだ、といってはおしまいか。実際、友人の舞台や話題作でない限り、すすんで観ようと思う作品が少ないのは悲しむべきことなのか?
現代演劇が満足を与えられないからこそ、そこに立ち向かうものもいるだろうし、伝統演劇や交響楽団やハリウッドの話題作が、どれほどの満足と有意義を与えられるかは疑問をもって考えたほうがいい。
ぼくは、さまざまな古典が好きだし、そこにこそ多くの時間をさく。だから古典や伝統演劇や技術のしっかりした芸能を否定するつもりはないし、現代演劇を持ち上げるために他をおとしめる必要はあるまい。だが、古典は口当たりの保証された定番品だとしたら、現代演劇は新商品のようなもので、多くの試行錯誤が必要なのだ。実験と開発。そんな要素だけでも、この博打的な芸術に参与する意義はあるだろう。
そこで、また、ブレヒトに戻る。
ぼくも多くのブレヒト作品を観てきた。たしかに満足より不満足の感を起こさせる上演のほうが多かった。上演だけみればブレヒトなんて葬り去るべき作家なんだろうな。なぜ今ブレヒトかという疑問は身近なところからも聞こえてくる。
その、「今」という現代性の問題を優先して考えないと、ブレヒトは上演できない。これは現代演劇一般にあてはまる。おもしろいだけでは上演するには不十分なのだ。『三文オペラ』とか『ガリレイの生涯』などという文字をクリックしたら、現代性というページにリンクするべきなのだ。
ならば、現代性とは何なのか?
日々塗り替えられていく世界は新しい思想、新しい感情を生み出していく。その変化ある人間の過程を解き明かし、敏感で正確に現実を把握すること。ブレヒトもいうように、人間と社会の変革を捉えること。そんなことかもしれない。
ぼくは、戯曲や小説に、現代に見受けられる人間が描かれているだけでは物足りないと思う。また、登場人物を近ごろ見受ける人間のように解釈してしまうことも。
ハムレットは絶望的に先行きがない若者だが、人間的な可能性のふり幅は莫大なように感じ取れる。ハムレットを生きる人間としてとらえればそうなるであろうが、物語の人物、若者の典型という枠内でとらえれば、なんら可能性を感じさせない。
そして、ハムレットが自分のいる社会のなかでどのように変貌をとげるかを考えることで、自分や社会の抱える問題が明らかになる。現代性とは、そういった認識の問題でもある。ハムレットがマザコンだとか、ハゲだとか、太っていたとかは、ゴシップ的な興味でしかない。
ブレヒトが『真実を書く際の五つの困難』にあげた要素は、そっくりそのまま、「ブレヒトを上演する際の五つの困難」として提起できるであろう。
1 ブレヒトを上演する勇気
2 ブレヒトを認識する賢明さ
3 武器として役立つにようにする技術
4 だれにそれをひろめるかの判断力
5 どのようにひろめるかの策略
回答は上演の結果待ちで、問題を投げかけたい。
「今日の世界はブレヒトによって再現できるか」
cf. 内閣総辞職
だいたい、現代演劇を観て満足することのほうが稀なのだ、といってはおしまいか。実際、友人の舞台や話題作でない限り、すすんで観ようと思う作品が少ないのは悲しむべきことなのか?
現代演劇が満足を与えられないからこそ、そこに立ち向かうものもいるだろうし、伝統演劇や交響楽団やハリウッドの話題作が、どれほどの満足と有意義を与えられるかは疑問をもって考えたほうがいい。
ぼくは、さまざまな古典が好きだし、そこにこそ多くの時間をさく。だから古典や伝統演劇や技術のしっかりした芸能を否定するつもりはないし、現代演劇を持ち上げるために他をおとしめる必要はあるまい。だが、古典は口当たりの保証された定番品だとしたら、現代演劇は新商品のようなもので、多くの試行錯誤が必要なのだ。実験と開発。そんな要素だけでも、この博打的な芸術に参与する意義はあるだろう。
そこで、また、ブレヒトに戻る。
ぼくも多くのブレヒト作品を観てきた。たしかに満足より不満足の感を起こさせる上演のほうが多かった。上演だけみればブレヒトなんて葬り去るべき作家なんだろうな。なぜ今ブレヒトかという疑問は身近なところからも聞こえてくる。
その、「今」という現代性の問題を優先して考えないと、ブレヒトは上演できない。これは現代演劇一般にあてはまる。おもしろいだけでは上演するには不十分なのだ。『三文オペラ』とか『ガリレイの生涯』などという文字をクリックしたら、現代性というページにリンクするべきなのだ。
ならば、現代性とは何なのか?
日々塗り替えられていく世界は新しい思想、新しい感情を生み出していく。その変化ある人間の過程を解き明かし、敏感で正確に現実を把握すること。ブレヒトもいうように、人間と社会の変革を捉えること。そんなことかもしれない。
ぼくは、戯曲や小説に、現代に見受けられる人間が描かれているだけでは物足りないと思う。また、登場人物を近ごろ見受ける人間のように解釈してしまうことも。
ハムレットは絶望的に先行きがない若者だが、人間的な可能性のふり幅は莫大なように感じ取れる。ハムレットを生きる人間としてとらえればそうなるであろうが、物語の人物、若者の典型という枠内でとらえれば、なんら可能性を感じさせない。
そして、ハムレットが自分のいる社会のなかでどのように変貌をとげるかを考えることで、自分や社会の抱える問題が明らかになる。現代性とは、そういった認識の問題でもある。ハムレットがマザコンだとか、ハゲだとか、太っていたとかは、ゴシップ的な興味でしかない。
ブレヒトが『真実を書く際の五つの困難』にあげた要素は、そっくりそのまま、「ブレヒトを上演する際の五つの困難」として提起できるであろう。
1 ブレヒトを上演する勇気
2 ブレヒトを認識する賢明さ
3 武器として役立つにようにする技術
4 だれにそれをひろめるかの判断力
5 どのようにひろめるかの策略
回答は上演の結果待ちで、問題を投げかけたい。
「今日の世界はブレヒトによって再現できるか」
cf. 内閣総辞職
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