『西鶴置土産』を読んだ。井原西鶴の本と、真山青果が戯曲化した本の両方を。
そのなかの一篇、「人には棒振虫同然に思われ」で、利左衛門は女郎を身請けしてからのちは、貧乏ぐらしをしながら生活を送っている。女郎に大金を投げるようにして使っていた昔とくらべ、現在は子供の服の替えがないほどの極貧の暮らしをしながら、親子三人で暮らしている。そんな利左衛門が昔の遊び友達に見つかり、見栄を張って彼らを家に呼んだ。むかし太夫だった女房も見栄を張って貧乏を誇りにし、利左と女房はその昔友達たちの金銭の援助も断り、あくる日には利左と女房と子どもの三人は家を出て行く。そんなお話。
井原西鶴の研究者の熊谷孝は、西鶴の世代を逃亡世代と名付ける。民衆としての人間回復を志向し、精神の自由を守るために封建体制の枠から逃げる人たち。逃亡することで、自己の存在証明をする人たち。西鶴はその逃げる人たちに、人間性回復と自分たちの世代のあるべき姿を発見したという。
『お夏清十郎』のふたりももちろん逃げたし、昨日書いた兵庫の男女も逃げた。西鶴のほかの作品の人物たちも逃げる。トリュフォーの『大人は分かってくれない』の少年も逃げた。漱石の『門』の宗助と御米も逃げた。西鶴や近松や溝口の暦屋おさんも逃げた。
利左衛門の逃亡はどんな逃亡なのだろうか?
まずは、女郎遊びをしていた利左衛門が遊びでなく恋をして、女郎を身請けするところにひとつの道の選択がある。『お夏清十郎』の清十郎にはそれができなかった。この道は破滅の道である。というのは利左衛門と恋をした太夫は当代のトップの女郎であり、その身請けの金額はとてつもないから。手元に残ったお金はないどころか、借金だらけだろう。そんな道を選択したのだ。
そして昔友達に憐憫を受けた後の逃亡。西鶴はその昔友達が道楽をやめてしまった教訓として書いていて、利左衛門の逃亡そのもは描いていない。真山青果は利左衛門の逃亡は見栄を張る嘘の世界を離れて、正直に生きるために稼ぎに行く結末としている。
利左衛門の逃亡は、心機一転巻きなおしということなのかもしれない。昔友達から逃れようとしたわけでなく、今までの生活からの脱却。大尽が女郎を買う買われるの浮世の世界から離れて堅気になった二人であるが、昔友達に会ってみると、二人ともそんな浮世の垢がまだこびりついている。そこからの脱却。
逃亡、逃亡というけども、定住し根を張っている側からの見方であって、逃げる者たちには新しい人生への行動でしかないのかもしれない。
そんな意味で、月夜の利左衛門のような逃亡は、江戸時代や現代を問わず、世界のどこでも、もしくはひとりの人間の人生で何度か起る逃亡のひとつなのではないだろうか?
そのなかの一篇、「人には棒振虫同然に思われ」で、利左衛門は女郎を身請けしてからのちは、貧乏ぐらしをしながら生活を送っている。女郎に大金を投げるようにして使っていた昔とくらべ、現在は子供の服の替えがないほどの極貧の暮らしをしながら、親子三人で暮らしている。そんな利左衛門が昔の遊び友達に見つかり、見栄を張って彼らを家に呼んだ。むかし太夫だった女房も見栄を張って貧乏を誇りにし、利左と女房はその昔友達たちの金銭の援助も断り、あくる日には利左と女房と子どもの三人は家を出て行く。そんなお話。
井原西鶴の研究者の熊谷孝は、西鶴の世代を逃亡世代と名付ける。民衆としての人間回復を志向し、精神の自由を守るために封建体制の枠から逃げる人たち。逃亡することで、自己の存在証明をする人たち。西鶴はその逃げる人たちに、人間性回復と自分たちの世代のあるべき姿を発見したという。
『お夏清十郎』のふたりももちろん逃げたし、昨日書いた兵庫の男女も逃げた。西鶴のほかの作品の人物たちも逃げる。トリュフォーの『大人は分かってくれない』の少年も逃げた。漱石の『門』の宗助と御米も逃げた。西鶴や近松や溝口の暦屋おさんも逃げた。
利左衛門の逃亡はどんな逃亡なのだろうか?
まずは、女郎遊びをしていた利左衛門が遊びでなく恋をして、女郎を身請けするところにひとつの道の選択がある。『お夏清十郎』の清十郎にはそれができなかった。この道は破滅の道である。というのは利左衛門と恋をした太夫は当代のトップの女郎であり、その身請けの金額はとてつもないから。手元に残ったお金はないどころか、借金だらけだろう。そんな道を選択したのだ。
そして昔友達に憐憫を受けた後の逃亡。西鶴はその昔友達が道楽をやめてしまった教訓として書いていて、利左衛門の逃亡そのもは描いていない。真山青果は利左衛門の逃亡は見栄を張る嘘の世界を離れて、正直に生きるために稼ぎに行く結末としている。
利左衛門の逃亡は、心機一転巻きなおしということなのかもしれない。昔友達から逃れようとしたわけでなく、今までの生活からの脱却。大尽が女郎を買う買われるの浮世の世界から離れて堅気になった二人であるが、昔友達に会ってみると、二人ともそんな浮世の垢がまだこびりついている。そこからの脱却。
逃亡、逃亡というけども、定住し根を張っている側からの見方であって、逃げる者たちには新しい人生への行動でしかないのかもしれない。
そんな意味で、月夜の利左衛門のような逃亡は、江戸時代や現代を問わず、世界のどこでも、もしくはひとりの人間の人生で何度か起る逃亡のひとつなのではないだろうか?
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