何年か前に、プラトンの書いた作品を通じてソクラテスの生き方に惚れ込んだことがあった。ソクラテスの生き方に触れるわけだから、思索を巡らしたり、議論したくなったりしたのだが、その当時は、ソクラテスの主旨よりも、議論をすること、悪くいえば打ち負かすことを楽しんでいた。そのためにとげとげしくもなり、いわば喧嘩腰だったわけだ。
テレビの討論番組にしても、国会の審議にしてもそうなのだが、確かに論戦はおもしろくはあるのだが、ならば、一番いい方法を見つけるためにすることは何なのだろうか?まさか議論に勝つことではあるまい。打ち負かすことでもない。相手に非を認めさせることでもない。論戦の相手が喜んで自らの意見を変えることが必要なのだが、なかなか意見は変わるものではないし、党派的なしがらみや思想もある。
ころころ意見を変えることに対する厳しい監視の目もある。
ソクラテスは真理を求めていた。
そのために、いろいろな方法をとって、たまには馬鹿もした。
相手より強く声をだし、打ち負かすことが求められた古代ギリシアの政治のなかで、大事なことはそこにはないよ、といわんばかりに。
モンテーニュがおもしろいことを言っている。
「不断の顔で死と交わり、死に親しみ、死と戯れるのは、ソクラテスだけができることである。彼は死のほかに慰みを求めない。彼にとっては死は自然の、どうでもよいできごとのように思われるから、そこに正しく自分の目を据え、よそ見をせずに、覚悟を決めるのである。」(「エセー」原二郎訳)
死と言えば、伊丹万作のエッセーにもおもしろい文章があった。
「私の顔も死ぬる前になれば、これはこれなりにもう少ししっくりと落ち着き、今よりはずっと安定感を得てくるに違いない。
だから私は鏡を見て自分の顔の未完成さを悟るごとに、自分の死期はまだまだ遠いと思って安心するのである。」(「顔の美について」伊丹万作)
ソクラテス→死、というつながりでただ書き流しているので、結論はありません。
ただ、気になることは、死というものが深刻さを逃れるようにも、考えようによってはできることだ。
人の葬式や、体調の悪化の話を聞くのもつらいことではあるが、話をする当人のほうはそれほどでもないようだ。
そんなときは、議論に打ち勝つことや、人より上を目指すということより、何か、無頓着な真理に触れているような気が、ぼくにはする。
そんな神々しさが人間にはあることが、昨今の世相の悪さからの救いになるような気がする。
「糞は臭いといっただけのリアリズムは好まない」といった小津安二郎の至言が分かってきた。
テレビの討論番組にしても、国会の審議にしてもそうなのだが、確かに論戦はおもしろくはあるのだが、ならば、一番いい方法を見つけるためにすることは何なのだろうか?まさか議論に勝つことではあるまい。打ち負かすことでもない。相手に非を認めさせることでもない。論戦の相手が喜んで自らの意見を変えることが必要なのだが、なかなか意見は変わるものではないし、党派的なしがらみや思想もある。
ころころ意見を変えることに対する厳しい監視の目もある。
ソクラテスは真理を求めていた。
そのために、いろいろな方法をとって、たまには馬鹿もした。
相手より強く声をだし、打ち負かすことが求められた古代ギリシアの政治のなかで、大事なことはそこにはないよ、といわんばかりに。
モンテーニュがおもしろいことを言っている。
「不断の顔で死と交わり、死に親しみ、死と戯れるのは、ソクラテスだけができることである。彼は死のほかに慰みを求めない。彼にとっては死は自然の、どうでもよいできごとのように思われるから、そこに正しく自分の目を据え、よそ見をせずに、覚悟を決めるのである。」(「エセー」原二郎訳)
死と言えば、伊丹万作のエッセーにもおもしろい文章があった。
「私の顔も死ぬる前になれば、これはこれなりにもう少ししっくりと落ち着き、今よりはずっと安定感を得てくるに違いない。
だから私は鏡を見て自分の顔の未完成さを悟るごとに、自分の死期はまだまだ遠いと思って安心するのである。」(「顔の美について」伊丹万作)
ソクラテス→死、というつながりでただ書き流しているので、結論はありません。
ただ、気になることは、死というものが深刻さを逃れるようにも、考えようによってはできることだ。
人の葬式や、体調の悪化の話を聞くのもつらいことではあるが、話をする当人のほうはそれほどでもないようだ。
そんなときは、議論に打ち勝つことや、人より上を目指すということより、何か、無頓着な真理に触れているような気が、ぼくにはする。
そんな神々しさが人間にはあることが、昨今の世相の悪さからの救いになるような気がする。
「糞は臭いといっただけのリアリズムは好まない」といった小津安二郎の至言が分かってきた。
コメント
コメントを投稿