ここ数日、別役実の作品を通して、死というものを考えてきた。
それには伏線みたいなものがあって、夏目漱石の『硝子戸の中』のある場面で、漱石が、生きるべきか死ぬべきか迷っている女性に、どうしても死を勧めることはできなかったということ。
カミュの『シジュフォスの神話』の、カミュの描くシジュフォスの戯画では、シジュフォスはまず死の神を鎖でつないでしまったというエピソードを残している。いっこうに死者が来ないので、地獄の神が怒ってしまったという神話。
また、シシュフォスは死んで後、人間的感情をもたないで自分の遺体を広場に放置した妻へのこらしめのために、生の国に一時戻る許可を地獄の神から得て、地上に戻ったが、この世の姿、水と太陽、入江の曲線、大地の微笑をすっかり気にいって、地獄から帰って来いといわれてもずっと無視しつづけ、生の輝く世界を前に行き続けたという。しまいに地獄から追っ手が来てつかまってしまったという。
柄谷行人はおもしろいことを示唆している。葬礼は死者を片付けて、それがいない世界をつくるためになされる。死者を弔うのは死者を考えているのでなく、ある者が亡くなったて穴があいて不安定化した共同体を再確立するため、また死者を忘れ去るためになされる。葬礼は原始時代から、つまり生者の社会の共同体があるところでは必ず行われる。キルケゴールの言葉を引用して、死者とは他者であり、死者と生者の関係がかわるとすれば、生者が変わったからにほかならない、われわれは死者と交渉しようがないと。
死者を祭り上げるといった行為はすべて生者のための口実なのだろう。作家の死後100年記念や、銅像をたてる、宗教的儀式も含めて。政治家の靖国神社の参拝なんかは特に政治家としての口実・体面としてであって、偽善的に太平洋戦争の死者を祭り上げている。
ぼく個人としては、死者を祭り上げた祭礼ほど陰気なものはないと見る者で、生の祭典のあの躍動と比較して、どうしても歓迎できないものだ。偉人の銅像なんてつまらないものだし、映画人の復活上映は忘れられていた映画を生者としてよみがえらせる行為においてしか意味をみいださない。
たとえば原爆の追悼の儀式も、湿っぽく行う必要はないのだ。われわれ生者の豊かな世界に、強制的に死者の世界に連れて行かたものを一時的に連れ戻そうとする祭典にすればいい。生者に強く光をあてれば輪郭ははっきりする。ここでは歴史を学ばなければならないのだ。学ばない者が国のトップにたって暴言を吐いたために袋叩きにあう。
生者は行進をしていく。それはシベリアを歩く受刑者のようにぽつぽつといなくなっていく者もあるかもしれない。しかし生者は行進をやめない。あたかも死などないかのように、または死など関係ないように、歩き続けることこそ生者としての意義があるのだな。
それには伏線みたいなものがあって、夏目漱石の『硝子戸の中』のある場面で、漱石が、生きるべきか死ぬべきか迷っている女性に、どうしても死を勧めることはできなかったということ。
カミュの『シジュフォスの神話』の、カミュの描くシジュフォスの戯画では、シジュフォスはまず死の神を鎖でつないでしまったというエピソードを残している。いっこうに死者が来ないので、地獄の神が怒ってしまったという神話。
また、シシュフォスは死んで後、人間的感情をもたないで自分の遺体を広場に放置した妻へのこらしめのために、生の国に一時戻る許可を地獄の神から得て、地上に戻ったが、この世の姿、水と太陽、入江の曲線、大地の微笑をすっかり気にいって、地獄から帰って来いといわれてもずっと無視しつづけ、生の輝く世界を前に行き続けたという。しまいに地獄から追っ手が来てつかまってしまったという。
柄谷行人はおもしろいことを示唆している。葬礼は死者を片付けて、それがいない世界をつくるためになされる。死者を弔うのは死者を考えているのでなく、ある者が亡くなったて穴があいて不安定化した共同体を再確立するため、また死者を忘れ去るためになされる。葬礼は原始時代から、つまり生者の社会の共同体があるところでは必ず行われる。キルケゴールの言葉を引用して、死者とは他者であり、死者と生者の関係がかわるとすれば、生者が変わったからにほかならない、われわれは死者と交渉しようがないと。
死者を祭り上げるといった行為はすべて生者のための口実なのだろう。作家の死後100年記念や、銅像をたてる、宗教的儀式も含めて。政治家の靖国神社の参拝なんかは特に政治家としての口実・体面としてであって、偽善的に太平洋戦争の死者を祭り上げている。
ぼく個人としては、死者を祭り上げた祭礼ほど陰気なものはないと見る者で、生の祭典のあの躍動と比較して、どうしても歓迎できないものだ。偉人の銅像なんてつまらないものだし、映画人の復活上映は忘れられていた映画を生者としてよみがえらせる行為においてしか意味をみいださない。
たとえば原爆の追悼の儀式も、湿っぽく行う必要はないのだ。われわれ生者の豊かな世界に、強制的に死者の世界に連れて行かたものを一時的に連れ戻そうとする祭典にすればいい。生者に強く光をあてれば輪郭ははっきりする。ここでは歴史を学ばなければならないのだ。学ばない者が国のトップにたって暴言を吐いたために袋叩きにあう。
生者は行進をしていく。それはシベリアを歩く受刑者のようにぽつぽつといなくなっていく者もあるかもしれない。しかし生者は行進をやめない。あたかも死などないかのように、または死など関係ないように、歩き続けることこそ生者としての意義があるのだな。
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