観てきました。明日は同じ文学座の同じ別役作品。
そういえば、先週の土曜日は昼夜と同じ作品を観て来たな。同じ清水邦夫の『楽屋』を、同じ日に、同じ阿佐ヶ谷で、ふたつの公演とも友人が出演していると、偶然が重なって、結局戯曲にたいする理解が深まったのと、二公演の比較を楽しめて、興味深い一日だった。それもそのうち書こうっと・・・
で、文学座の別役作品。偶然、隣の席が別役氏で、その隣が演出の藤原氏という、緊張を強いられるポジションに立たされた(座らされた?)わけで、純粋に楽しもうとする以外の演技も入った観劇だった。というのは、へたに中途半端に笑うのはいけないと思ったわけで(カラカラ笑えるものでもなかったが)、またへたに居眠りこくのは失礼だし(あいにく今日は眠くならなかった)、要するに、隣の別役オヤジに、ぼくが本当におもしろいなら笑うが中途半端なら一切笑わんぞという意思表示をしていたわけで、観劇中に何をしているんだというこったな。
つまり、心は軽やかに待機しながら、厳しい目で観ていたわけだ。これじゃ観劇じゃなくて、稽古場だなと思ってしまった。
だからというわけではないが、緊張感を保てたために、戯曲の意味や本質に深く思いをめぐらし、登場人物のあれこれの行動やことばを考えることができた。が、結論はでなかった。それでいいのかもしれないが、テーマ論的にみると、いくつかのテーマがあげられる。記憶、人生、死、集合離散。作品の前半は花のない花見という集まりだったのが、作品の後半になるにつれ、死のテーマが重くのしかかってくるのは人生の縮図であると解釈できるし、幕と幕をつなぐ間の記憶が問題になってくるのもわれわれ人間の不確かさなのかもしれない。
つねに西に向かうのは西方浄土だと戯曲中にあるし、そこへの歩き方はつねに「だるまさんがころんだ」のようにリズムを伴っている。それを口ずさまずには歩けないわれわれ身寄りのない人間たち。
幕の構成も四季の設定にのせて、人生の春から、冬の死まで、人生とともに歩む。
しかし、なぜほとんどの登場人物が自らの命を絶つのだろうか?それ以上の解決方法はないのかというのが、おおいなる疑問である。それが70歳になった別役氏の見た世界で、ぼくのようなその半分にも満たない人間には分からない人生の生き様なのかもしれない。なんの老化もしていない演技をしながらも、体の不具合は進行し、ときはかなりの年月を運んでいることを示唆していた世界のその終局は、老人の自ら選び進んでいく死ではないか?なぜ、どの老人もその終局を待っていたかのように、死を選んでいくのか?ぼくは、老人が死を前にしながらも生き続ける努力をしている事例を好んでみてきたから無知なのか?劇作で人を殺すのはわけないし、役者は死んでくれる。が、現実の人間は喜んでは死んでくれないのだ。戦いがあるはずなのだが、それが前半にあったのか、ぼくがそれを見落としていたのか?
作品のことばかりで、役者の演技について言ってなかった。罠にはまって嬉々としながらうそ臭い演技をしてしまったな、というのが感想。別役作品にはよくあるのだが、いきなり見ず知らずの人が乱入して、かき回して、去っていくという状況。みんなフレンドリーに会話するのだが、そんなことは実生活ではありえない。探り探り関係性を築きあげていくものだ。ぶっきらぼうだったり、個人主義的だったり、はにかみが邪魔をして、またときには意地悪い性格も災いして、人間関係はできあがるのに苦労が伴う。しかし今日の演技では、初めから誰も何にも警戒心をもたないでフォルティシモから会話し始めたようだ。ゼロかマックスかのように。
芸達者でも熟練でもやはりそこらへんの嘘芝居は見るに耐えないものだった。ボルテージがあがってきてからは、ぴたりとはまる演技に思えたが・・・
人生の機微をつかまえた芝居であるならなおさらのこと、そのあたりの微妙な人間関係に踏み込んでほしかった。これは演出の問題でもあるな。
角野卓造の演技は文学座の舞台ではワンパターン化してきているのが、うれしくもあり、物足りなくもある。メインに近い役からはずして、脇で使ってみたらまた別な面に光線が当たるようなきがする。それは役者のための冠公演のような公演を時折やってしまう劇団の姿勢も関係するのかな?分からないが。
総じて、この公演は、興味深く、認識的に魅了するところがあったが、その反面、謎深い作品をさらに謎かけてしまう要素があって、おもしろいとはいえなかった。単純明快な表現にむかうことをしなかったのが残念。作品に立ち向かう思想が問題なのか・・・
cf. 数字で書かれた物語
そういえば、先週の土曜日は昼夜と同じ作品を観て来たな。同じ清水邦夫の『楽屋』を、同じ日に、同じ阿佐ヶ谷で、ふたつの公演とも友人が出演していると、偶然が重なって、結局戯曲にたいする理解が深まったのと、二公演の比較を楽しめて、興味深い一日だった。それもそのうち書こうっと・・・
で、文学座の別役作品。偶然、隣の席が別役氏で、その隣が演出の藤原氏という、緊張を強いられるポジションに立たされた(座らされた?)わけで、純粋に楽しもうとする以外の演技も入った観劇だった。というのは、へたに中途半端に笑うのはいけないと思ったわけで(カラカラ笑えるものでもなかったが)、またへたに居眠りこくのは失礼だし(あいにく今日は眠くならなかった)、要するに、隣の別役オヤジに、ぼくが本当におもしろいなら笑うが中途半端なら一切笑わんぞという意思表示をしていたわけで、観劇中に何をしているんだというこったな。
つまり、心は軽やかに待機しながら、厳しい目で観ていたわけだ。これじゃ観劇じゃなくて、稽古場だなと思ってしまった。
だからというわけではないが、緊張感を保てたために、戯曲の意味や本質に深く思いをめぐらし、登場人物のあれこれの行動やことばを考えることができた。が、結論はでなかった。それでいいのかもしれないが、テーマ論的にみると、いくつかのテーマがあげられる。記憶、人生、死、集合離散。作品の前半は花のない花見という集まりだったのが、作品の後半になるにつれ、死のテーマが重くのしかかってくるのは人生の縮図であると解釈できるし、幕と幕をつなぐ間の記憶が問題になってくるのもわれわれ人間の不確かさなのかもしれない。
つねに西に向かうのは西方浄土だと戯曲中にあるし、そこへの歩き方はつねに「だるまさんがころんだ」のようにリズムを伴っている。それを口ずさまずには歩けないわれわれ身寄りのない人間たち。
幕の構成も四季の設定にのせて、人生の春から、冬の死まで、人生とともに歩む。
しかし、なぜほとんどの登場人物が自らの命を絶つのだろうか?それ以上の解決方法はないのかというのが、おおいなる疑問である。それが70歳になった別役氏の見た世界で、ぼくのようなその半分にも満たない人間には分からない人生の生き様なのかもしれない。なんの老化もしていない演技をしながらも、体の不具合は進行し、ときはかなりの年月を運んでいることを示唆していた世界のその終局は、老人の自ら選び進んでいく死ではないか?なぜ、どの老人もその終局を待っていたかのように、死を選んでいくのか?ぼくは、老人が死を前にしながらも生き続ける努力をしている事例を好んでみてきたから無知なのか?劇作で人を殺すのはわけないし、役者は死んでくれる。が、現実の人間は喜んでは死んでくれないのだ。戦いがあるはずなのだが、それが前半にあったのか、ぼくがそれを見落としていたのか?
作品のことばかりで、役者の演技について言ってなかった。罠にはまって嬉々としながらうそ臭い演技をしてしまったな、というのが感想。別役作品にはよくあるのだが、いきなり見ず知らずの人が乱入して、かき回して、去っていくという状況。みんなフレンドリーに会話するのだが、そんなことは実生活ではありえない。探り探り関係性を築きあげていくものだ。ぶっきらぼうだったり、個人主義的だったり、はにかみが邪魔をして、またときには意地悪い性格も災いして、人間関係はできあがるのに苦労が伴う。しかし今日の演技では、初めから誰も何にも警戒心をもたないでフォルティシモから会話し始めたようだ。ゼロかマックスかのように。
芸達者でも熟練でもやはりそこらへんの嘘芝居は見るに耐えないものだった。ボルテージがあがってきてからは、ぴたりとはまる演技に思えたが・・・
人生の機微をつかまえた芝居であるならなおさらのこと、そのあたりの微妙な人間関係に踏み込んでほしかった。これは演出の問題でもあるな。
角野卓造の演技は文学座の舞台ではワンパターン化してきているのが、うれしくもあり、物足りなくもある。メインに近い役からはずして、脇で使ってみたらまた別な面に光線が当たるようなきがする。それは役者のための冠公演のような公演を時折やってしまう劇団の姿勢も関係するのかな?分からないが。
総じて、この公演は、興味深く、認識的に魅了するところがあったが、その反面、謎深い作品をさらに謎かけてしまう要素があって、おもしろいとはいえなかった。単純明快な表現にむかうことをしなかったのが残念。作品に立ち向かう思想が問題なのか・・・
cf. 数字で書かれた物語
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