山椒大夫とはいったい何者なのか?現代の山椒大夫は?
こういった問いを抱えながら、溝口はこの映画『山椒大夫』をとったに違いない。実際、当時の映画俳優がかけもちの仕事ばかりして、自分の映画に専念してもらえないのを嘆いて、プロモーターを山椒大夫になぞらえていた。
山椒大夫とは?
有力な政治家に庇護された資本家。狡猾な人間、それも中央の政治家たちの間でも手出しのできかねる知恵者。自分の荘園では奴隷をこきつかう。周囲に手下をもっていて、自分の手をなるべく汚さないで事をすすめる。残虐な刑罰の実行。奴隷の監視。人身売買の行き着く場所、つまり奴隷の労働力を買うところ。お金の出入りに対してうるさい。接待、賄賂、へつらい、それらによって見返りと自身の安全を期待する。法律と公的な規制を物ともしない、つまり、裏に有力な政治家がいるので、地方の国司が手出しをできないことを承知で権力をふりかざす。
まだまだいっぱい要素をあげられるだろう。こうして見てくると、現代にも山椒大夫が存在しはびこっているのが分かるだろう。そして、現代の山椒大夫はもっと狡猾に、もっと論理を巧妙に、また、もっと大規模に組織を作り上げて協力して複数で犯罪を行っている。そして、労働力が奴隷という名をはずされて、契約という名目で行われているから、民衆の隷属化がより自覚しにくい。
現代の山椒大夫ならどんな武器を使うのだろうか?
まず、賄賂・へつらい・根回しによる身の保全は同じく欠かさない。また、資本力を増殖させることに対して手段を選ばないことは同じだろう。法律の間をくぐりぬけるために、現代では弁護士などの法律家を後ろに待機させ、公的な装いを見せる。組織を巨大化し仕事を分担することで、責任を分散させる。つまり企業化、ビジネス。マスメディアの力を利用すること、つまりは現代で山椒大夫が味方につけようと考えているのは、有力な政治家だけでなく、巨大な宣伝力と影響力をもつメディアとその周辺の有力者たち。20世紀の産業機械だけでなく、現代では全世界的なネットワークと標準化による戦略。石油などの利権。目に見えないところでの搾取。労働力の巧みな利用と、無責任な保障。また、より明確に、武器をもつ、武装する。それは理論武装にとどまらない、ミサイルをもつ。しかも、軍事産業というビジネスとして。
こうした山椒大夫が現代にも生きているかぎり、そのからくりと横暴を暴き立てなくてはならない。平安時代であろうが、戦後50年代であろうが、21世紀の現代であろうが戦いにはかわらない。
山椒大夫を物語るのに、この観点をなくしてしまったら何も残らない。
安寿と厨子王の悲しい行く末の物語ではまったくない。同情のその後に怒りがこみ上げてくるだろうが、どうであろうか?
cf. 山椒大夫
こういった問いを抱えながら、溝口はこの映画『山椒大夫』をとったに違いない。実際、当時の映画俳優がかけもちの仕事ばかりして、自分の映画に専念してもらえないのを嘆いて、プロモーターを山椒大夫になぞらえていた。
山椒大夫とは?
有力な政治家に庇護された資本家。狡猾な人間、それも中央の政治家たちの間でも手出しのできかねる知恵者。自分の荘園では奴隷をこきつかう。周囲に手下をもっていて、自分の手をなるべく汚さないで事をすすめる。残虐な刑罰の実行。奴隷の監視。人身売買の行き着く場所、つまり奴隷の労働力を買うところ。お金の出入りに対してうるさい。接待、賄賂、へつらい、それらによって見返りと自身の安全を期待する。法律と公的な規制を物ともしない、つまり、裏に有力な政治家がいるので、地方の国司が手出しをできないことを承知で権力をふりかざす。
まだまだいっぱい要素をあげられるだろう。こうして見てくると、現代にも山椒大夫が存在しはびこっているのが分かるだろう。そして、現代の山椒大夫はもっと狡猾に、もっと論理を巧妙に、また、もっと大規模に組織を作り上げて協力して複数で犯罪を行っている。そして、労働力が奴隷という名をはずされて、契約という名目で行われているから、民衆の隷属化がより自覚しにくい。
現代の山椒大夫ならどんな武器を使うのだろうか?
まず、賄賂・へつらい・根回しによる身の保全は同じく欠かさない。また、資本力を増殖させることに対して手段を選ばないことは同じだろう。法律の間をくぐりぬけるために、現代では弁護士などの法律家を後ろに待機させ、公的な装いを見せる。組織を巨大化し仕事を分担することで、責任を分散させる。つまり企業化、ビジネス。マスメディアの力を利用すること、つまりは現代で山椒大夫が味方につけようと考えているのは、有力な政治家だけでなく、巨大な宣伝力と影響力をもつメディアとその周辺の有力者たち。20世紀の産業機械だけでなく、現代では全世界的なネットワークと標準化による戦略。石油などの利権。目に見えないところでの搾取。労働力の巧みな利用と、無責任な保障。また、より明確に、武器をもつ、武装する。それは理論武装にとどまらない、ミサイルをもつ。しかも、軍事産業というビジネスとして。
こうした山椒大夫が現代にも生きているかぎり、そのからくりと横暴を暴き立てなくてはならない。平安時代であろうが、戦後50年代であろうが、21世紀の現代であろうが戦いにはかわらない。
山椒大夫を物語るのに、この観点をなくしてしまったら何も残らない。
安寿と厨子王の悲しい行く末の物語ではまったくない。同情のその後に怒りがこみ上げてくるだろうが、どうであろうか?
cf. 山椒大夫
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