溝口健二の『山椒大夫』を語って3日目になる。
昨日は、山椒大夫について書いたので、もうひとつの鍵となる「引き離された家族」のテーマについて考えてみる。
厨子王や安寿の父親である平正氏は武士が台頭してきた時期に、領民を守るための理想主義によって筑紫に左遷される。ここでひとつの離散。
そして筑紫に向かって、母子3人と乳母を連れた無謀で非力な旅が始まる。その途中、越後で人買いに捕まり、母子は別れ別れになる。母は佐渡の遊女宿へ、兄妹は丹後の山椒大夫の荘園に、そして乳母は越後の海に沈む。この距離的な遠さと、ぬかりなく行き先の決まっている犯罪は、人身売買の組織網の広さを物語っている。
山椒大夫のもとで月日を送った安寿と厨子王は、新入りの奴隷の歌う歌で母の存在に思いをはせたことで逃亡を企て、厨子王を逃がすため、安寿は時間稼ぎをして、兄妹は離れ離れになる。厨子王は生きて中央の政治家に請願するが、安寿は別れた後に入水する。
ひとりまたひとりと家族は別れていき、まだつながっているものに望みをかけるかのように、物語の重心は、引き離されていない者たちに移っていくのだが、最終的には家族四人ばらばらになる。
幸運だったのは、たとえ四人が離散しても、それを引き止めるかのように、家族を求心的に引き寄せる強い力が作用していたとうことだ。それは、陸奥から筑紫までの無茶な旅にはじまり、父親の残した言葉、母が遠くで呼び続けた歌、いち早く山椒大夫を倒して妹を救いにくる厨子王の行動、父と妹の死を知った厨子王が母を訪ねる行動に表れている。とりわけ、父親の言葉と、母の呼び声のモチーフは反復されて、安寿や厨子王を目覚めさせる働きもしている。
実際、越後の浜辺近くでの枝折の場面で、母の心配する呼び声は子供たちにも届いており、その呼び声の聞こえる範囲内でしか、安寿と厨子王は行動しない。直後の夜の場面では、二人はすっかり母のもとに戻って安心している。その呼び声が時空を超えただけの話で、離れ離れになった二人の耳に、母の声は他人の歌声を借りて再び伝達する。逃亡の場面では、安寿の幻聴という手段で伝達する。最後の佐渡での厨子王の途方にくれた耳には、すぐ近くにいるのに声といった伝達というよりも、存在の伝達という手段で居場所を告げている。逆説的に、厨子王が言葉でいくら母に境遇を語っても、母はなぶりものにされるのを恐れている。最終的に父親の形見である観音像の触覚で母は厨子王を本物の息子だと認識できる。
周到に用意されたさまざまなモチーフにより、結局家族は離れ離れになるべきでなかったことが語られ、失ったものを回復する求心的な力の勝利に終わる。母は子を呼び、子はそれを聞き分け、父は精神的な支えの記憶として残り、または形見という物質的な力も使う。安寿の犠牲は厨子王の過激すぎる行動をせきたてて、厨子王は政治の有力者としての地位には目もくれず、いちはやく安寿を救い出すべく駆けつける。
説教節や民話として伝承される安寿と厨子王の印象よりももっと深く、溝口は、家族の根源的な求心力に焦点をあてたと思う。その力は激しい表層を伴って、過激な行動となって描かれている。対するものが強大で、不条理なものであり、また死という取り返しのつかない現実でもあるので、その格闘の過程は憐憫を誘うものではない。力強い苦闘の表現である。
カメラが、遠巻きに母と息子の再会を促し、その後近づいて、ふたりではあっても家族が再びひとつのものになった融合の場面をあとに、また遠巻きに浜辺に目を向ける有名なカメラワークは、この物語を幸せで終わらせるだけにとどまらず、悲劇は起こりうる、どこかで繰り返されるものとして提示しているように思える。
近景でみるとハッピーエンドだが、遠景に移行したときに、冷徹な歴史観が見えてくる。救いのない世の中と、救われた家族。そのどちらも抜きにして、この映画はかたれまい。
cf. 山椒大夫
山椒大夫(2)
昨日は、山椒大夫について書いたので、もうひとつの鍵となる「引き離された家族」のテーマについて考えてみる。
厨子王や安寿の父親である平正氏は武士が台頭してきた時期に、領民を守るための理想主義によって筑紫に左遷される。ここでひとつの離散。
そして筑紫に向かって、母子3人と乳母を連れた無謀で非力な旅が始まる。その途中、越後で人買いに捕まり、母子は別れ別れになる。母は佐渡の遊女宿へ、兄妹は丹後の山椒大夫の荘園に、そして乳母は越後の海に沈む。この距離的な遠さと、ぬかりなく行き先の決まっている犯罪は、人身売買の組織網の広さを物語っている。
山椒大夫のもとで月日を送った安寿と厨子王は、新入りの奴隷の歌う歌で母の存在に思いをはせたことで逃亡を企て、厨子王を逃がすため、安寿は時間稼ぎをして、兄妹は離れ離れになる。厨子王は生きて中央の政治家に請願するが、安寿は別れた後に入水する。
ひとりまたひとりと家族は別れていき、まだつながっているものに望みをかけるかのように、物語の重心は、引き離されていない者たちに移っていくのだが、最終的には家族四人ばらばらになる。
幸運だったのは、たとえ四人が離散しても、それを引き止めるかのように、家族を求心的に引き寄せる強い力が作用していたとうことだ。それは、陸奥から筑紫までの無茶な旅にはじまり、父親の残した言葉、母が遠くで呼び続けた歌、いち早く山椒大夫を倒して妹を救いにくる厨子王の行動、父と妹の死を知った厨子王が母を訪ねる行動に表れている。とりわけ、父親の言葉と、母の呼び声のモチーフは反復されて、安寿や厨子王を目覚めさせる働きもしている。
実際、越後の浜辺近くでの枝折の場面で、母の心配する呼び声は子供たちにも届いており、その呼び声の聞こえる範囲内でしか、安寿と厨子王は行動しない。直後の夜の場面では、二人はすっかり母のもとに戻って安心している。その呼び声が時空を超えただけの話で、離れ離れになった二人の耳に、母の声は他人の歌声を借りて再び伝達する。逃亡の場面では、安寿の幻聴という手段で伝達する。最後の佐渡での厨子王の途方にくれた耳には、すぐ近くにいるのに声といった伝達というよりも、存在の伝達という手段で居場所を告げている。逆説的に、厨子王が言葉でいくら母に境遇を語っても、母はなぶりものにされるのを恐れている。最終的に父親の形見である観音像の触覚で母は厨子王を本物の息子だと認識できる。
周到に用意されたさまざまなモチーフにより、結局家族は離れ離れになるべきでなかったことが語られ、失ったものを回復する求心的な力の勝利に終わる。母は子を呼び、子はそれを聞き分け、父は精神的な支えの記憶として残り、または形見という物質的な力も使う。安寿の犠牲は厨子王の過激すぎる行動をせきたてて、厨子王は政治の有力者としての地位には目もくれず、いちはやく安寿を救い出すべく駆けつける。
説教節や民話として伝承される安寿と厨子王の印象よりももっと深く、溝口は、家族の根源的な求心力に焦点をあてたと思う。その力は激しい表層を伴って、過激な行動となって描かれている。対するものが強大で、不条理なものであり、また死という取り返しのつかない現実でもあるので、その格闘の過程は憐憫を誘うものではない。力強い苦闘の表現である。
カメラが、遠巻きに母と息子の再会を促し、その後近づいて、ふたりではあっても家族が再びひとつのものになった融合の場面をあとに、また遠巻きに浜辺に目を向ける有名なカメラワークは、この物語を幸せで終わらせるだけにとどまらず、悲劇は起こりうる、どこかで繰り返されるものとして提示しているように思える。
近景でみるとハッピーエンドだが、遠景に移行したときに、冷徹な歴史観が見えてくる。救いのない世の中と、救われた家族。そのどちらも抜きにして、この映画はかたれまい。
cf. 山椒大夫
山椒大夫(2)
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