先日は、現代の山椒大夫とは何かを考えたが、今日は、現代の安寿と厨子王は何かと、自信はないが、考えたみたい。あくまで、森鴎外の『山椒大夫』でなく、溝口健二の『山椒大夫』として。
まず、安寿と厨子王は何をしたのか?
父親の失脚で、母子で父の元に向かう旅をする。人買いに捕まって、母と離れ離れにさせられる。丹後の山椒大夫のもとに奴隷として放り込まれる。素性へのプライドは子供心にもあって名前を明かさない、これは鍵となることである。あとで述べる。
山椒大夫のもとで長年は酷使され、身も心もぼろぼろになる。ようは人間でなく、非人扱いなのだ。厨子王は環境に順応して、山椒大夫に反抗するのでなく、かえって手先として利用される。安寿はあくまで、入ってきたときの屈辱と現状の奴隷たちの悲惨さで反抗心を残している。二人とも成人として成長している真っ只中の青年なのだ。この山椒大夫の領地で働かされている他の奴隷たちも、あるものは順応し、あるものは無感覚になり、あるものは牙を隠しながら耐え忍んでいる。
母の便りをふとしたことから知って、安寿はもとの幸福を取り戻そうという気持ちになる。安寿は厨子王を改心させようとするが、長年の環境の垢はなかなか落とせない。瀕死の同僚を捨てに領内の山に行かされる機会から、安寿は厨子王を逃亡させる。厨子王はここで改心して、その同僚を背負い山向こうの国分寺に駆け込み、山椒大夫のもとでの隷属状態を中央に訴えようとする。安寿は厨子王を逃がすため時間稼ぎをして、みずからは入水自殺をする。厨子王はそれを知らない。
開放された厨子王は時の政権の有力者に直訴するが、不審者としてつかまってしまう。が、そこで警備の者に没収された、父親の形見の観音像のおかげで、素性を知ってもらえ、丹後の国の国司の地位が空いていたので、国司となる。このあたりの環境のめまぐるしさは不自然なのだが、劇的なテンポによる誇張と解釈できる。実際なら、そんなに簡単に早く国司になるというわけにはいくまい。
国司になった厨子王は、山椒大夫をつぶし、安寿を助けにいく。山椒大夫をつぶすということは、中央の有力な政治家に喧嘩をうることで、自分の国司の地位はすぐにはずされることを意味する。しかし、厨子王にとっては国司の地位など問題でなく、ただただ、山椒大夫をつぶし、安寿をはじめとする奴隷を解放することが重要なのだ。結局、みずから山椒大夫のもとに乗り込み、山椒大夫の一味を国外へ追放し、奴隷を解放する。
また、一介の平民として戻った厨子王は母を訪ねて佐渡へ渡る。そうして、ようやく十数年越しに母と再会する。
ざっとあげればこんな過程を経てきているわけで、大きく考えれば、失っていったもの、離れ離れになったものを回復しようとする試みにほかならない。失った幸福を長年かけて、また不完全ではあるが回復できたところに物語の結末がある。円は小さくなりながらようやくつながって、ひとつの幸福の円環となった。
またひとつの要素としては、子どもたちの成長の歴史として、子どもたちの苦闘により、離散した家族を取り戻すことができた。両親は子どもたちの行動を促していて、その行動をすることで安寿と厨子王は大人へと成長する。そういった意味で、この逸話が児童文学にも取り上げられる理由となるのだが、溝口の狙いは子どもの行動にはない。大人として、不条理や抑圧に反抗するものとして、またみずからの意志で闘いを選ぶものとして描かれている。
さきほど、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに送られても名前を明かさないことを言ったが、この無名性というのはさまざまな意味で重要になってくる。この二人の名前の響きは、おそらく庶民の名前の響きではなく、国司であった父親の地位を連想させるものである。この名前を隠すことによって、得にも損にもなるであろうが、彼らは素性を隠すことができる。みずから隠さずとも、どの身分の出であろうと奴隷は奴隷でしかなく、以前の歴史を消しながら生きざるをえない。過去のことを振り返るのも惨めで、いってみれば、ここではみな過去の歴史から断絶させられて生きている。
佐渡に遊女として送りこまれた母親もそうで、遊女は実名を名乗らない。玉木という自分の名と別な世界で生きざるをえなくなる。佐渡での遊女の生活も、子どもたちの山椒大夫のもとでの生活と同じく、逃亡の許されない奴隷の生活である。逃亡できなくするため、母親は足の指を切られる。それでも母親は、安寿と厨子王を思うため海に向かって歌い続ける。
名前と過去を失わされた者が、失うことのできない記憶や思いや形見によって、または本名によって、覚醒し、再会する。
そこでようやく家族を取り戻し、過去の歴史を取り戻し、名前を取り戻すことができた。自分であること、アイデンティティを回復する。それは母が子の名前を呼び、子が母に寄り添うことに集約される。
現代の安寿と厨子王とは?わたしたちは何を失っているのか?きっと見えない山椒大夫のもとで、わたしたちが無感覚になって失くしたものにも気づかず、失った名前も、失った家族関係にも気づかない可能性はある。もしくはそれほど重大に失ってはいないのだが、隷属の状態にも気がついていない可能性もある。
癒しといったことばは安寿と厨子王の行動にはあてはまらない。感傷的になって二人に同情するばかりでも何にもならない。わたしたちがどのようにして、成長し、幸福を得、過去に失ったものを取り戻すか、そんな旅を現実化することにかかっている。
ぼくは『山椒大夫』をそのような闘いの物語として解釈している。
cf. 山椒大夫
山椒大夫(2)
山椒大夫(3)
まず、安寿と厨子王は何をしたのか?
父親の失脚で、母子で父の元に向かう旅をする。人買いに捕まって、母と離れ離れにさせられる。丹後の山椒大夫のもとに奴隷として放り込まれる。素性へのプライドは子供心にもあって名前を明かさない、これは鍵となることである。あとで述べる。
山椒大夫のもとで長年は酷使され、身も心もぼろぼろになる。ようは人間でなく、非人扱いなのだ。厨子王は環境に順応して、山椒大夫に反抗するのでなく、かえって手先として利用される。安寿はあくまで、入ってきたときの屈辱と現状の奴隷たちの悲惨さで反抗心を残している。二人とも成人として成長している真っ只中の青年なのだ。この山椒大夫の領地で働かされている他の奴隷たちも、あるものは順応し、あるものは無感覚になり、あるものは牙を隠しながら耐え忍んでいる。
母の便りをふとしたことから知って、安寿はもとの幸福を取り戻そうという気持ちになる。安寿は厨子王を改心させようとするが、長年の環境の垢はなかなか落とせない。瀕死の同僚を捨てに領内の山に行かされる機会から、安寿は厨子王を逃亡させる。厨子王はここで改心して、その同僚を背負い山向こうの国分寺に駆け込み、山椒大夫のもとでの隷属状態を中央に訴えようとする。安寿は厨子王を逃がすため時間稼ぎをして、みずからは入水自殺をする。厨子王はそれを知らない。
開放された厨子王は時の政権の有力者に直訴するが、不審者としてつかまってしまう。が、そこで警備の者に没収された、父親の形見の観音像のおかげで、素性を知ってもらえ、丹後の国の国司の地位が空いていたので、国司となる。このあたりの環境のめまぐるしさは不自然なのだが、劇的なテンポによる誇張と解釈できる。実際なら、そんなに簡単に早く国司になるというわけにはいくまい。
国司になった厨子王は、山椒大夫をつぶし、安寿を助けにいく。山椒大夫をつぶすということは、中央の有力な政治家に喧嘩をうることで、自分の国司の地位はすぐにはずされることを意味する。しかし、厨子王にとっては国司の地位など問題でなく、ただただ、山椒大夫をつぶし、安寿をはじめとする奴隷を解放することが重要なのだ。結局、みずから山椒大夫のもとに乗り込み、山椒大夫の一味を国外へ追放し、奴隷を解放する。
また、一介の平民として戻った厨子王は母を訪ねて佐渡へ渡る。そうして、ようやく十数年越しに母と再会する。
ざっとあげればこんな過程を経てきているわけで、大きく考えれば、失っていったもの、離れ離れになったものを回復しようとする試みにほかならない。失った幸福を長年かけて、また不完全ではあるが回復できたところに物語の結末がある。円は小さくなりながらようやくつながって、ひとつの幸福の円環となった。
またひとつの要素としては、子どもたちの成長の歴史として、子どもたちの苦闘により、離散した家族を取り戻すことができた。両親は子どもたちの行動を促していて、その行動をすることで安寿と厨子王は大人へと成長する。そういった意味で、この逸話が児童文学にも取り上げられる理由となるのだが、溝口の狙いは子どもの行動にはない。大人として、不条理や抑圧に反抗するものとして、またみずからの意志で闘いを選ぶものとして描かれている。
さきほど、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに送られても名前を明かさないことを言ったが、この無名性というのはさまざまな意味で重要になってくる。この二人の名前の響きは、おそらく庶民の名前の響きではなく、国司であった父親の地位を連想させるものである。この名前を隠すことによって、得にも損にもなるであろうが、彼らは素性を隠すことができる。みずから隠さずとも、どの身分の出であろうと奴隷は奴隷でしかなく、以前の歴史を消しながら生きざるをえない。過去のことを振り返るのも惨めで、いってみれば、ここではみな過去の歴史から断絶させられて生きている。
佐渡に遊女として送りこまれた母親もそうで、遊女は実名を名乗らない。玉木という自分の名と別な世界で生きざるをえなくなる。佐渡での遊女の生活も、子どもたちの山椒大夫のもとでの生活と同じく、逃亡の許されない奴隷の生活である。逃亡できなくするため、母親は足の指を切られる。それでも母親は、安寿と厨子王を思うため海に向かって歌い続ける。
名前と過去を失わされた者が、失うことのできない記憶や思いや形見によって、または本名によって、覚醒し、再会する。
そこでようやく家族を取り戻し、過去の歴史を取り戻し、名前を取り戻すことができた。自分であること、アイデンティティを回復する。それは母が子の名前を呼び、子が母に寄り添うことに集約される。
現代の安寿と厨子王とは?わたしたちは何を失っているのか?きっと見えない山椒大夫のもとで、わたしたちが無感覚になって失くしたものにも気づかず、失った名前も、失った家族関係にも気づかない可能性はある。もしくはそれほど重大に失ってはいないのだが、隷属の状態にも気がついていない可能性もある。
癒しといったことばは安寿と厨子王の行動にはあてはまらない。感傷的になって二人に同情するばかりでも何にもならない。わたしたちがどのようにして、成長し、幸福を得、過去に失ったものを取り戻すか、そんな旅を現実化することにかかっている。
ぼくは『山椒大夫』をそのような闘いの物語として解釈している。
cf. 山椒大夫
山椒大夫(2)
山椒大夫(3)
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