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山椒大夫(4)

先日は、現代の山椒大夫とは何かを考えたが、今日は、現代の安寿と厨子王は何かと、自信はないが、考えたみたい。あくまで、森鴎外の『山椒大夫』でなく、溝口健二の『山椒大夫』として。

まず、安寿と厨子王は何をしたのか?
父親の失脚で、母子で父の元に向かう旅をする。人買いに捕まって、母と離れ離れにさせられる。丹後の山椒大夫のもとに奴隷として放り込まれる。素性へのプライドは子供心にもあって名前を明かさない、これは鍵となることである。あとで述べる。
山椒大夫のもとで長年は酷使され、身も心もぼろぼろになる。ようは人間でなく、非人扱いなのだ。厨子王は環境に順応して、山椒大夫に反抗するのでなく、かえって手先として利用される。安寿はあくまで、入ってきたときの屈辱と現状の奴隷たちの悲惨さで反抗心を残している。二人とも成人として成長している真っ只中の青年なのだ。この山椒大夫の領地で働かされている他の奴隷たちも、あるものは順応し、あるものは無感覚になり、あるものは牙を隠しながら耐え忍んでいる。
母の便りをふとしたことから知って、安寿はもとの幸福を取り戻そうという気持ちになる。安寿は厨子王を改心させようとするが、長年の環境の垢はなかなか落とせない。瀕死の同僚を捨てに領内の山に行かされる機会から、安寿は厨子王を逃亡させる。厨子王はここで改心して、その同僚を背負い山向こうの国分寺に駆け込み、山椒大夫のもとでの隷属状態を中央に訴えようとする。安寿は厨子王を逃がすため時間稼ぎをして、みずからは入水自殺をする。厨子王はそれを知らない。
開放された厨子王は時の政権の有力者に直訴するが、不審者としてつかまってしまう。が、そこで警備の者に没収された、父親の形見の観音像のおかげで、素性を知ってもらえ、丹後の国の国司の地位が空いていたので、国司となる。このあたりの環境のめまぐるしさは不自然なのだが、劇的なテンポによる誇張と解釈できる。実際なら、そんなに簡単に早く国司になるというわけにはいくまい。
国司になった厨子王は、山椒大夫をつぶし、安寿を助けにいく。山椒大夫をつぶすということは、中央の有力な政治家に喧嘩をうることで、自分の国司の地位はすぐにはずされることを意味する。しかし、厨子王にとっては国司の地位など問題でなく、ただただ、山椒大夫をつぶし、安寿をはじめとする奴隷を解放することが重要なのだ。結局、みずから山椒大夫のもとに乗り込み、山椒大夫の一味を国外へ追放し、奴隷を解放する。
また、一介の平民として戻った厨子王は母を訪ねて佐渡へ渡る。そうして、ようやく十数年越しに母と再会する。

ざっとあげればこんな過程を経てきているわけで、大きく考えれば、失っていったもの、離れ離れになったものを回復しようとする試みにほかならない。失った幸福を長年かけて、また不完全ではあるが回復できたところに物語の結末がある。円は小さくなりながらようやくつながって、ひとつの幸福の円環となった。
またひとつの要素としては、子どもたちの成長の歴史として、子どもたちの苦闘により、離散した家族を取り戻すことができた。両親は子どもたちの行動を促していて、その行動をすることで安寿と厨子王は大人へと成長する。そういった意味で、この逸話が児童文学にも取り上げられる理由となるのだが、溝口の狙いは子どもの行動にはない。大人として、不条理や抑圧に反抗するものとして、またみずからの意志で闘いを選ぶものとして描かれている。

さきほど、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに送られても名前を明かさないことを言ったが、この無名性というのはさまざまな意味で重要になってくる。この二人の名前の響きは、おそらく庶民の名前の響きではなく、国司であった父親の地位を連想させるものである。この名前を隠すことによって、得にも損にもなるであろうが、彼らは素性を隠すことができる。みずから隠さずとも、どの身分の出であろうと奴隷は奴隷でしかなく、以前の歴史を消しながら生きざるをえない。過去のことを振り返るのも惨めで、いってみれば、ここではみな過去の歴史から断絶させられて生きている。
佐渡に遊女として送りこまれた母親もそうで、遊女は実名を名乗らない。玉木という自分の名と別な世界で生きざるをえなくなる。佐渡での遊女の生活も、子どもたちの山椒大夫のもとでの生活と同じく、逃亡の許されない奴隷の生活である。逃亡できなくするため、母親は足の指を切られる。それでも母親は、安寿と厨子王を思うため海に向かって歌い続ける。
名前と過去を失わされた者が、失うことのできない記憶や思いや形見によって、または本名によって、覚醒し、再会する。
そこでようやく家族を取り戻し、過去の歴史を取り戻し、名前を取り戻すことができた。自分であること、アイデンティティを回復する。それは母が子の名前を呼び、子が母に寄り添うことに集約される。

現代の安寿と厨子王とは?わたしたちは何を失っているのか?きっと見えない山椒大夫のもとで、わたしたちが無感覚になって失くしたものにも気づかず、失った名前も、失った家族関係にも気づかない可能性はある。もしくはそれほど重大に失ってはいないのだが、隷属の状態にも気がついていない可能性もある。
癒しといったことばは安寿と厨子王の行動にはあてはまらない。感傷的になって二人に同情するばかりでも何にもならない。わたしたちがどのようにして、成長し、幸福を得、過去に失ったものを取り戻すか、そんな旅を現実化することにかかっている。

ぼくは『山椒大夫』をそのような闘いの物語として解釈している。


cf.  山椒大夫
山椒大夫(2)
山椒大夫(3)

コメント

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但馬屋のお夏

『但馬屋のお夏』という作品を見た。NHKが過去に放送した作品で、近松門左衛門原作、秋元松代脚本、和田勉演出、大地喜和子主演のドラマだ。
真山青果の『お夏清十郎』とは違って、清十郎は出てこない作品で、近松に基づいた作品なので、西鶴に基づいたそれとは幾分筋立てや名前などが違う。

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父と暮らせば

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こういうやりとりの後、竹造は美津江のそばを離れていきます。
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As Tears Go By(涙あふれて)

ブログを放置して、
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お久しぶりです。

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こんな曲を弾いていたような The Rolling Stones - As Tears Go By 

どうしたんでしょう… なんだか、昔を思い出して、懐かしくなって…
「追憶」というのは健康に良いんだか悪いんだか。タイトルに「涙あふれて」とか書いたけど、涙なんて出ていませんから、今。
ここらへんでやめておきましょう。 また旅行について書くこともあるでしょう。

3月11日あの日

地震から1年経ちました。


そのときは外で勤務中、やけに大きな揺れがずっと続くなと思いました。小学生たちを待機・避難させ、その後外にいたいろんな人と情報交換したり、Twitterなどで情報を収集して、とんでもない事態だったのだなと悟りました。


その日は、自分が率いている演劇の稽古がある日だったので、開催するかどうかもふくめて相談しようとしても、友人たちに電話もメールも通じません。結局中止に。いずれにせよ電車が動いてなかったし。


福島いわきにいる両親や兄にも連絡通じず。夜になって兄とつながり、無事を確認。不安ではあったものの疲れていたので、テレビを見ながら居眠り。次の日テレビやTwitterで、とてつもない津波だったことを知りました。

その後は、Twitterでいろんな人の安否確認や、福島県といわきの情報を仕入れるために奔走。


Twitterの記録から(抜粋)
2011年3月11日

福島いわきの兄貴から連絡あった。兄の家族無事だって。よかった。両親とはつながらないな。 posted at 17:59:48

福島いわきは今も頻繁に余震が続いているようです。両親と連絡がとれてひとまず安心。 posted at 19:40:16
地震後の対応多すぎてかなり疲れた。 posted at 20:40:37

3月12日

実家は福島いわき南部ですが、津波被害もあったよう。小学校・中学校の学区内で床上まで浸水もしくは流されたのがあったらしい。泳いだり遊んだりした砂浜を越えて津波が押し寄せたかと思うと怖い。友人の家も低地にあるし、大丈夫かな。断水なので、明日、水をもらいに行かなければと母親が言ってた。 posted at 23:10:06

祖母と親戚家族は南相馬市なので、原発の避難範囲20キロに含まれた。公的な施設に避難していたというので、きっと移動したと思う。いわきから助けに行きたいけど、原発2つを突っ切る形になるので無理だと母親が言っていた。いわき南部だって安心できない。 posted at 23:15:47

3月13日
いわき情報 #iwaki RT @yuiyasu: @tomogram 漁港付近はコンテナやトラックが転がってた。アクアマリンやららミュウはダメ。産業道路から漁港前もなんとか通れた。津波の被害は、想ったほどでは無かった。長崎と江名が酷いらしい。 posted at 01:55:49

四倉は国…

別れの唄

2007年4月7日(土)
『別れの唄』
今日、シアタートラムで日仏合同公演をみてきた。平田オリザが4年かけて作り上げたプロジェクトだとかいう。戯曲にも、演出にも、舞台装置にもその形跡が残されていた。

中心になるテーマは異文化のズレ。この枠からはみ出ることなく、物語としては広がりが欠けるのだが、主題となる様々な点、すなわち、葬式をめぐる国籍間の差異、そこに浮き出る誤解、ゆくゆくは理解にいたる過程、普遍的な人間性などが展開されていくことで、物語的な狭さは、かえってその狭さゆえに、主題的な幅の広さに道を譲り、豊富な切り口で、このお通夜前の夕方の集約された時間を意義深い、色彩の濃いものにしている。

観劇しながら、小津安二郎の映画を何度も思い起こしたのは、偶然ではない。作者にも、演出家にも、この映画監督の存在は、つねに片隅にあったであろう。普遍的な人間性、家族、そしてフランスという国。

抒情的なものが極端に省かれ、つねに差異を見つめるまなざしにあったことで、この世界がどんなものであるのかを楽しみながら学ぶことができた。
作者が日本人であること、公演の場所が日本であることから、この上演は日本人の立場から見た差異となったのだろう。たとえば、この公演がフランスで行われているときに、フランスのお客さんはどういう視点を、この上演に確保できるのか?それを想像するのはなかなか難しい。葬式の段取りひとつ、ほぼ知識もなにもない観客に飛び込んでくるものは、日本の文化的風土に育った人間には笑いとなるようなものであっても、まったくの異物にしか思えないのではないか?それとも、フランス人夫婦のような、驚きながらも、理解する態度をとるのだろうか?

さて、わたしたちは、ここからどこへ行こうとするのか?この点がはっきりと打ち出されていたことが、カリカチュアに終わった葬儀屋の存在も、風俗の説明的な会話も、にわかにフランス人とは(もしくは人間とは)信じられないようなおとなしさも乗り越えて、意義のある成功した舞台につながったのではないだろうか?
おもしろかった。観劇でこういった知性に訴えかけるものに出会ったのは、久しぶりだ。

作:平田オリザ 翻訳:ユタカ・マキノ
演出・美術:ロラン・グットマン