しばらくこのブログを書かないと、書き続ける意欲も薄れていくもので、一度冷めた関係を取り戻すのが困難なように、書くことに着手するのにも勇気がいる。書いてしまえばなんてことはない、すらすら進む。人間関係のわだかまりだって、そんな小さな行動によって簡単に解消できるものが多いのかもしれない。
自分の怠慢を、人間関係にたとえるのは良くないな。
こんな書きはじめ方だからといって、何か事件が起こったわけでも、歴史的和解が起こったわけでも、よりを戻したわけでもない。
しかし、常々思うことは、古くからの友情にせよ、仕事上のつきあいにせよ、現在の交友関係にせよ、それとの人間関係はつねに新しく、新鮮に、活発に、更新していかなければいけないのだな。年賀状ひとつでも結びついている意識はあるのだから、それすらしないとなると、関係はもちたくありませんといっているようなものだろうか?なにも年賀状が必要なわけではないが、コミュニケーションのためのよい手段とよい機会だなとつくづく思うのである。
夏目漱石の『硝子戸の中』を読んでいても思うのだが、漱石はじめ、文人たち、その他の人たちは、よく手紙を書く。それにたいする丁寧な返答もたいていされる。手紙が儀式でなく、現在の電話やメールのように、離れている人とのコミュニケーションに大きな役割を持っている。
更新されなければ、と言った。だからといってただただ連絡をとりあえばいいというわけでもない。二人の関係をも新しく、より良いものに変えるような更新の仕方、これが必要なわけだ。更新の期間の長さの問題ではない。何十年ぶりにだって前回別れたところからまた開始できる友情がある。逆に、毎日のように連絡していてもお互いの認識や心情になんの更新もないような事例もありうる。
連絡をとるというのが、演劇や芸術やイベントを開く人たちのジレンマであり、試金石になるところで、受け取る側が宣伝されているだけの感想をしか持たないのなら、そんな連絡は広告・宣伝の種類の連絡だ。怖いのは、受け取る側が知り合いからの友情なりを期待していたのに、送る側は機械的に宣伝を刷って最終的に署名だけするような場合だ。
そして、ぼくの知る限り、演劇の世界でもそういった宣伝を友人と思っていた人から受け取る事例が多い。ぶっちゃけいえば、なんで公演のときだけへいこらへいこら媚を売ってくるんじゃあ!と思うのである。それはぼくの場合にも多くあてはまるので、反省はして改善しようとしているのだが、ひとにどういう印象を与え続けているかはわからない。自分がもらって喜ぶ案内を、人にも送る努力をしなければ。
演劇の世界で、多くのお客さんをもっている役者にときたま会うが、やはり顧客サービスというものに長けているから、また今度も見ようと思うのであろう。そんな人たちはひとつひとつの連絡・コミュニケーションの機会に自分の刻印を押している。しかも心地よいかたちで。
公演を見に行って、不快とまではいかないまでも、出演者とあまりいい関係でなく挨拶して終わるかたちが多い。事務的に集客して、お礼も事務的にされたときは悲しくなる。八方美人的にでもいいから愛想よく挨拶されるとうれしいな。終演後の役者の開放感を制御しないで挨拶回りする姿は共感を呼ぶ。嘘でもいいから友達でいて、じゃないが、作っていてもいいから挨拶の瞬間は大事にしてほしいな。それはぼくの今までの経験の反省も含めて。
書いているうちに、ふらふらとどこかに飛んでいってしまったかのようだ。きちんと意味が通じる地点に着地できただろうか?まあいい、快復後のリハビリみたいな飛行だからね。
自分の怠慢を、人間関係にたとえるのは良くないな。
こんな書きはじめ方だからといって、何か事件が起こったわけでも、歴史的和解が起こったわけでも、よりを戻したわけでもない。
しかし、常々思うことは、古くからの友情にせよ、仕事上のつきあいにせよ、現在の交友関係にせよ、それとの人間関係はつねに新しく、新鮮に、活発に、更新していかなければいけないのだな。年賀状ひとつでも結びついている意識はあるのだから、それすらしないとなると、関係はもちたくありませんといっているようなものだろうか?なにも年賀状が必要なわけではないが、コミュニケーションのためのよい手段とよい機会だなとつくづく思うのである。
夏目漱石の『硝子戸の中』を読んでいても思うのだが、漱石はじめ、文人たち、その他の人たちは、よく手紙を書く。それにたいする丁寧な返答もたいていされる。手紙が儀式でなく、現在の電話やメールのように、離れている人とのコミュニケーションに大きな役割を持っている。
更新されなければ、と言った。だからといってただただ連絡をとりあえばいいというわけでもない。二人の関係をも新しく、より良いものに変えるような更新の仕方、これが必要なわけだ。更新の期間の長さの問題ではない。何十年ぶりにだって前回別れたところからまた開始できる友情がある。逆に、毎日のように連絡していてもお互いの認識や心情になんの更新もないような事例もありうる。
連絡をとるというのが、演劇や芸術やイベントを開く人たちのジレンマであり、試金石になるところで、受け取る側が宣伝されているだけの感想をしか持たないのなら、そんな連絡は広告・宣伝の種類の連絡だ。怖いのは、受け取る側が知り合いからの友情なりを期待していたのに、送る側は機械的に宣伝を刷って最終的に署名だけするような場合だ。
そして、ぼくの知る限り、演劇の世界でもそういった宣伝を友人と思っていた人から受け取る事例が多い。ぶっちゃけいえば、なんで公演のときだけへいこらへいこら媚を売ってくるんじゃあ!と思うのである。それはぼくの場合にも多くあてはまるので、反省はして改善しようとしているのだが、ひとにどういう印象を与え続けているかはわからない。自分がもらって喜ぶ案内を、人にも送る努力をしなければ。
演劇の世界で、多くのお客さんをもっている役者にときたま会うが、やはり顧客サービスというものに長けているから、また今度も見ようと思うのであろう。そんな人たちはひとつひとつの連絡・コミュニケーションの機会に自分の刻印を押している。しかも心地よいかたちで。
公演を見に行って、不快とまではいかないまでも、出演者とあまりいい関係でなく挨拶して終わるかたちが多い。事務的に集客して、お礼も事務的にされたときは悲しくなる。八方美人的にでもいいから愛想よく挨拶されるとうれしいな。終演後の役者の開放感を制御しないで挨拶回りする姿は共感を呼ぶ。嘘でもいいから友達でいて、じゃないが、作っていてもいいから挨拶の瞬間は大事にしてほしいな。それはぼくの今までの経験の反省も含めて。
書いているうちに、ふらふらとどこかに飛んでいってしまったかのようだ。きちんと意味が通じる地点に着地できただろうか?まあいい、快復後のリハビリみたいな飛行だからね。
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