ここしばらく死のことを書き綴っている。死を語るのは生を語りたいがためで、なにぶん死というものが分かっていないためである。自分の経験上からは導き出せないものを、経験し分かるものから導き出すのは常套手段だろうが、それしかできないのだから仕方がない。
生まれ変わったら女と男どちらになりたい?と聞かれる質問ほど答えにくいものはなく、まじめに考えるときりがないし、かといって不真面目に答えると質問者に申し訳ないし、質問する人は答えを導き出したいのではなく、話題を求め関係を築きたいのかもしれない。どちらになりたい?というのも、やはり分かっていることから類推するか、想像するかで、結局は今ある性と別な性に答えることにしている。
自分の経験したことから類推することも必要だが、この世界は経験するには無限に大きすぎる。数を増やそうが、結論は似たようなものになって、結局平均値をとるか、規則を作ってしまうのがおちだ。かといって、この試みをやめようとしないのが人間なのかもしれない。何度も同じ過ちを繰り返してしまう恋愛。
逆に、数や種類の豊富さに圧倒されるか、もしくははなからそんな豊かさとは別な道をとり、少ないもので事足りるのを良しとする場合もある。どの料理もおいしい料理店で、結局は2,3のメニューにとどまってしまうのはぼくだけか?
すべてを経験し吸収しようとするファウストやドン・ファンの試みは、ある意味神がかり、というよりも悪魔的な決意だ。しかし、不十分な資料で論証される、というより強引な詭弁を使って物事を語られるよりはいいのかもしれない。
常々思うのは、老人にかなわない部分があり、それは経験にほかならない。部族の長老が尊敬されるのはそのためであろう。仕事上の先輩が落ち着いて作業をできるのはそこにあり、それがあることは大きな意味をもつ。
経験というものには勝てない部分があり、だからぼくはおとなしくしているかと思えばそうでもない。老人や年配の人より経験がないから、そんなものがあることすら思いつかないのかもしれない。また、経験上のものがすべて正しいわけでないことも知っている。経験は正しくても、間違った類推もある。
ボズウェルの書いたジョンソンのことば
「再婚は経験にたいする希望の勝利である」(ジョンソン)
まだまだ余地は残っているわけだ。
生まれ変わったら女と男どちらになりたい?と聞かれる質問ほど答えにくいものはなく、まじめに考えるときりがないし、かといって不真面目に答えると質問者に申し訳ないし、質問する人は答えを導き出したいのではなく、話題を求め関係を築きたいのかもしれない。どちらになりたい?というのも、やはり分かっていることから類推するか、想像するかで、結局は今ある性と別な性に答えることにしている。
自分の経験したことから類推することも必要だが、この世界は経験するには無限に大きすぎる。数を増やそうが、結論は似たようなものになって、結局平均値をとるか、規則を作ってしまうのがおちだ。かといって、この試みをやめようとしないのが人間なのかもしれない。何度も同じ過ちを繰り返してしまう恋愛。
逆に、数や種類の豊富さに圧倒されるか、もしくははなからそんな豊かさとは別な道をとり、少ないもので事足りるのを良しとする場合もある。どの料理もおいしい料理店で、結局は2,3のメニューにとどまってしまうのはぼくだけか?
すべてを経験し吸収しようとするファウストやドン・ファンの試みは、ある意味神がかり、というよりも悪魔的な決意だ。しかし、不十分な資料で論証される、というより強引な詭弁を使って物事を語られるよりはいいのかもしれない。
常々思うのは、老人にかなわない部分があり、それは経験にほかならない。部族の長老が尊敬されるのはそのためであろう。仕事上の先輩が落ち着いて作業をできるのはそこにあり、それがあることは大きな意味をもつ。
経験というものには勝てない部分があり、だからぼくはおとなしくしているかと思えばそうでもない。老人や年配の人より経験がないから、そんなものがあることすら思いつかないのかもしれない。また、経験上のものがすべて正しいわけでないことも知っている。経験は正しくても、間違った類推もある。
ボズウェルの書いたジョンソンのことば
「再婚は経験にたいする希望の勝利である」(ジョンソン)
まだまだ余地は残っているわけだ。
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