二日連続で文学座のアトリエを訪れたことになる。昨日は作家の隣の席で、今日は最前列という、どうも劇に集中せざるをえない環境におかれて、そうなればなったで満足だな。
うん、楽しかった、今日のほうは。人数も同じくらいの登場の密な舞台なのだが、今日の場合はまず、登場人物がみな仲間だという設定が、人間関係の濃密な歴史の過程を途中から始められるという利点があったように思う。それを観客は推理できるしね。
重苦しい話ではないことは知っていたが、昨日の作品と同じように死、しかも自殺の話ではある。この二作品をとりあげる鍵となるテーマは死、自殺のように思えた。ただし、両作品をみればわかるが、『数字』のほうは自殺はナレーション上だけで、『犬』のほうは舞台上か、舞台袖で人が死ぬ。前者は自決する意志を感じさせることは舞台の上ではなにひとつなく、ある意味、死を軽蔑するかのように脇道を歩き、おそろしく遠回りをしてばかりいる。後者は、直線的ではないが、向かう場所を知って、あきらかにそこに向かっている。
『数字』の話だけをすると、新興宗教のカルト教徒と思わせる人間でなく、死期を意識している人間でもなく、なぜかつまらない世俗の些事にこだわって生活している人間が逆説的に、とてつもない行動を起こしていることがおもしろい。会話はすべて理屈や、揚げ足とりや、ちっぽけな小言に執着したりと、教団の思想的な話などなにひとつしない。それでいながら、ナレーションで伝えられるのは、餓死殉教や、切腹や、服毒などの過激なことばかり。舞台上では議論ばかりして、風船遊びのただひとつの行動さえおこすのに時間がかかるのに、伝えられるのは思いつめた行動の結果だ。切腹の未遂の傷も、傷の生活上の興味にだけ絞られて、かえっておもしろがっている。
ここに、巧妙な身のかわし方を見る。過激な行動、死への行進、思いつめた思想をアイロニカルに否定し、おそろしい回り道、日常のこまごまとした面倒なこと、ゆったりとした足取りに光をあてる。その世俗的なことに、排除の構造があったり、自己保身があったりはするが、死の行進と比べるとそれはかえって生を豊かにしているかのようにも思える。この、死を傍らに置き、そこへ向かう人間に、生の豊かさがみられることは貴重なことだといわねばならない。そこにこそ人生の一面をはっきりと見られると思う。それが、『犬』には無かったことが、その作品に不満足だった原因かもしれぬ。死に向かって進みながら、死を軽蔑すること。
この公演を観にいった一番の理由は、演出の高瀬久男氏。期待に違わず、いい演出だったと思う。音楽・音響効果の使い方に意図があるね、この方は。ひとりひとりの人物が輪郭をもつまで、丁寧に縁取っている。『マイシスター・イン・ディス・ハウス』や『アラビアン・ナイト』などいい仕事が多いな、駄作の『モンテクリスト伯』をのぞいて。
役者も最初の最初の場面をのぞけばいい演技だったと思う。どうしても場面の始まる前は正当化できないらしい。徐々につぼにはまるといった感じだ。
おおむね、どの役にも親しみをもてたし、どの役者も微妙な箇所まで演技していたし、よかったと思う。太田志津香にははまりそうだ。いちばん繊細に状況と役柄をとらえていたように思えた。最終的に性格の造形にまで至ったのには感心。
つい書きすぎたかな?まあ、よくできた公演だからいいだろう。
cf. 犬が西向きゃ尾は東
うん、楽しかった、今日のほうは。人数も同じくらいの登場の密な舞台なのだが、今日の場合はまず、登場人物がみな仲間だという設定が、人間関係の濃密な歴史の過程を途中から始められるという利点があったように思う。それを観客は推理できるしね。
重苦しい話ではないことは知っていたが、昨日の作品と同じように死、しかも自殺の話ではある。この二作品をとりあげる鍵となるテーマは死、自殺のように思えた。ただし、両作品をみればわかるが、『数字』のほうは自殺はナレーション上だけで、『犬』のほうは舞台上か、舞台袖で人が死ぬ。前者は自決する意志を感じさせることは舞台の上ではなにひとつなく、ある意味、死を軽蔑するかのように脇道を歩き、おそろしく遠回りをしてばかりいる。後者は、直線的ではないが、向かう場所を知って、あきらかにそこに向かっている。
『数字』の話だけをすると、新興宗教のカルト教徒と思わせる人間でなく、死期を意識している人間でもなく、なぜかつまらない世俗の些事にこだわって生活している人間が逆説的に、とてつもない行動を起こしていることがおもしろい。会話はすべて理屈や、揚げ足とりや、ちっぽけな小言に執着したりと、教団の思想的な話などなにひとつしない。それでいながら、ナレーションで伝えられるのは、餓死殉教や、切腹や、服毒などの過激なことばかり。舞台上では議論ばかりして、風船遊びのただひとつの行動さえおこすのに時間がかかるのに、伝えられるのは思いつめた行動の結果だ。切腹の未遂の傷も、傷の生活上の興味にだけ絞られて、かえっておもしろがっている。
ここに、巧妙な身のかわし方を見る。過激な行動、死への行進、思いつめた思想をアイロニカルに否定し、おそろしい回り道、日常のこまごまとした面倒なこと、ゆったりとした足取りに光をあてる。その世俗的なことに、排除の構造があったり、自己保身があったりはするが、死の行進と比べるとそれはかえって生を豊かにしているかのようにも思える。この、死を傍らに置き、そこへ向かう人間に、生の豊かさがみられることは貴重なことだといわねばならない。そこにこそ人生の一面をはっきりと見られると思う。それが、『犬』には無かったことが、その作品に不満足だった原因かもしれぬ。死に向かって進みながら、死を軽蔑すること。
この公演を観にいった一番の理由は、演出の高瀬久男氏。期待に違わず、いい演出だったと思う。音楽・音響効果の使い方に意図があるね、この方は。ひとりひとりの人物が輪郭をもつまで、丁寧に縁取っている。『マイシスター・イン・ディス・ハウス』や『アラビアン・ナイト』などいい仕事が多いな、駄作の『モンテクリスト伯』をのぞいて。
役者も最初の最初の場面をのぞけばいい演技だったと思う。どうしても場面の始まる前は正当化できないらしい。徐々につぼにはまるといった感じだ。
おおむね、どの役にも親しみをもてたし、どの役者も微妙な箇所まで演技していたし、よかったと思う。太田志津香にははまりそうだ。いちばん繊細に状況と役柄をとらえていたように思えた。最終的に性格の造形にまで至ったのには感心。
つい書きすぎたかな?まあ、よくできた公演だからいいだろう。
cf. 犬が西向きゃ尾は東
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