以前、ぼくは詩を作っていた時期がある。今から、10年くらい前だ。そのときは何かひらめくとすぐにメモをとり、その言葉や意味を記憶させようとしていた。たいていそんなひらめきは使い物にはならなく、後々見かえしても何を意味しているのか分からない理解不能な単語も登場する。書き連ねている瞬間だけに通用する興奮をともなったひらめき。
詩を作っているときは特に考えたのは、日常的な感情や考えの単純さをどうやって輪郭づけして際立たせるかということ。普段なら自動的に連想してしまうイメージを遮断して、別の象徴的なイメージに結びつけるかということ。何気に難しいんだ。人間、何の気なしに、無意識に自分の経験や過去のイメージを保存しているようで、そこにたどり着くのを安心し、安住してしまう。言葉遣いもマニュアル化してしまう。そこをいかに断ち切るかにかかっている。
なんでこんな話を持ち出したかというと、異化ということばに引っかかっているからだ。演劇の世界では異化といえばブレヒトにいきつき、そのブレヒトの異化理論というものの有効性を確かめたい。
異化、つまり特殊化。強調。距離を置くこと。非日常化。
インターネットで時折音つきのサイトがあり、そこを開いたときに、はっとする。それも異化というべきか。
和やかな談笑の場に、深刻な顔をした人が入ってきて、ある人の亡くなったことを告げる。そんなときも日常的な次元から急速にある次元に飛んでいく気がする。これも異化だな。
通勤途中に見たのだが、急な坂を上っていた自転車がいきなり、ぐにゃ、と崩れ落ちる。荷重がかかりすぎてフレームが折れたのだ。これもびっくり。これはアクシデントか?
溝口健二の『祗園の姉妹』だったけな、最後に主人公が激しく慟哭しながら世の中に抗議をするときに、カメラが、ぬっと、一歩前にでる。そこにカメラの非自動化がある。
最近のテレビや映画ではすこぶる低調だが、サンシャイン劇場で『どん底』をやったときの仲代達也のサーチンが、酒を飲み込むしぐさ。手をひらひらひらひらさせながら喉元からお腹まで下ろしていく。これぞ異化だ、素晴らしいと思ったなあ。
夏目漱石の『それから』で代助が勘当されて電車に乗って赤いものに極度に敏感になり、増殖していったのも、異化といえるだろうか?
結局、結論はでないものだ。さまざまな例を感じ取りながら、この難しい問題をもっと考えていこうと思う。シクロフスキーの本も買ったし。
詩を作っているときは特に考えたのは、日常的な感情や考えの単純さをどうやって輪郭づけして際立たせるかということ。普段なら自動的に連想してしまうイメージを遮断して、別の象徴的なイメージに結びつけるかということ。何気に難しいんだ。人間、何の気なしに、無意識に自分の経験や過去のイメージを保存しているようで、そこにたどり着くのを安心し、安住してしまう。言葉遣いもマニュアル化してしまう。そこをいかに断ち切るかにかかっている。
なんでこんな話を持ち出したかというと、異化ということばに引っかかっているからだ。演劇の世界では異化といえばブレヒトにいきつき、そのブレヒトの異化理論というものの有効性を確かめたい。
異化、つまり特殊化。強調。距離を置くこと。非日常化。
インターネットで時折音つきのサイトがあり、そこを開いたときに、はっとする。それも異化というべきか。
和やかな談笑の場に、深刻な顔をした人が入ってきて、ある人の亡くなったことを告げる。そんなときも日常的な次元から急速にある次元に飛んでいく気がする。これも異化だな。
通勤途中に見たのだが、急な坂を上っていた自転車がいきなり、ぐにゃ、と崩れ落ちる。荷重がかかりすぎてフレームが折れたのだ。これもびっくり。これはアクシデントか?
溝口健二の『祗園の姉妹』だったけな、最後に主人公が激しく慟哭しながら世の中に抗議をするときに、カメラが、ぬっと、一歩前にでる。そこにカメラの非自動化がある。
最近のテレビや映画ではすこぶる低調だが、サンシャイン劇場で『どん底』をやったときの仲代達也のサーチンが、酒を飲み込むしぐさ。手をひらひらひらひらさせながら喉元からお腹まで下ろしていく。これぞ異化だ、素晴らしいと思ったなあ。
夏目漱石の『それから』で代助が勘当されて電車に乗って赤いものに極度に敏感になり、増殖していったのも、異化といえるだろうか?
結局、結論はでないものだ。さまざまな例を感じ取りながら、この難しい問題をもっと考えていこうと思う。シクロフスキーの本も買ったし。
コメント
コメントを投稿