創作物とそのひとの人生というのは、離しがたいものである。
トリュフォーの映画に自伝的要素があるのを見つけた人は、それこそ揚げ足でも取るかのように、幼少時代の家庭環境を調べ上げる。
夏目漱石の小説に頻繁に登場する占い師も、漱石の日記をほじくりだしても、その関係を見つけ出そうとする人がいる。
小津安二郎がマザコンだとか、溝口健二が警察に恐れていたとか、ベートーヴェンの耳は本当は聞こえていたとか・・・
程度の問題ではあるが、そういった伝記的要素の掘り起こしはもちろん興味あるし、研究には欠かせないものなのかもしれない。いい作品に触れると、その作者をまるごと好きになってしまうのは誰にでも考えられることだ。
しかし、事を演劇を創作する立場において考えてみると、そういった神話、スタンプ的な決まり文句は、役に立つどころか有害にもなりかねない。
たとえば、漱石の松山時代の事実をいくら掘り起こしても、坊ちゃんの世界が豊かに彩れるわけでない。創作物と作者はイコールの関係では結べなく、しかも、漱石のような豊かな作品群を、そのわりには平凡な彼の人生で代弁してしまうことにもなりかねない。
作品には、反転に反転を重ねた、複雑な人間の生活が書かれているのを、事実というだけで真実でない想像で補うと、作品自体が小さくなってしまう。
ではどういう態度で作品に臨めばいいのか?
まずは、作者の伝記的要素を留保して、書かれていることだけを凝視する。作者の表現した表層から特徴的な事物や行動をとりだして、それを単純化した葛藤として考え直す。こぼれ落ちたものはそのままにしておく。無理に論理的である必要はない。そうしてできあがったドラマが、今の自分たちの問題かどうか検討する。自分たちに何の関連もなく、奮い立たせるものがなかったら、その作品と向き合うことはやめる。
というわけで、このテーマはぼくには何のおもしろいテーマでも、語ってみたいテーマでもないことが分かったたため、ここで話を打ち切る。
結局何を言いたかったことやら・・・
こういう失敗もよくあることさ!
トリュフォーの映画に自伝的要素があるのを見つけた人は、それこそ揚げ足でも取るかのように、幼少時代の家庭環境を調べ上げる。
夏目漱石の小説に頻繁に登場する占い師も、漱石の日記をほじくりだしても、その関係を見つけ出そうとする人がいる。
小津安二郎がマザコンだとか、溝口健二が警察に恐れていたとか、ベートーヴェンの耳は本当は聞こえていたとか・・・
程度の問題ではあるが、そういった伝記的要素の掘り起こしはもちろん興味あるし、研究には欠かせないものなのかもしれない。いい作品に触れると、その作者をまるごと好きになってしまうのは誰にでも考えられることだ。
しかし、事を演劇を創作する立場において考えてみると、そういった神話、スタンプ的な決まり文句は、役に立つどころか有害にもなりかねない。
たとえば、漱石の松山時代の事実をいくら掘り起こしても、坊ちゃんの世界が豊かに彩れるわけでない。創作物と作者はイコールの関係では結べなく、しかも、漱石のような豊かな作品群を、そのわりには平凡な彼の人生で代弁してしまうことにもなりかねない。
作品には、反転に反転を重ねた、複雑な人間の生活が書かれているのを、事実というだけで真実でない想像で補うと、作品自体が小さくなってしまう。
ではどういう態度で作品に臨めばいいのか?
まずは、作者の伝記的要素を留保して、書かれていることだけを凝視する。作者の表現した表層から特徴的な事物や行動をとりだして、それを単純化した葛藤として考え直す。こぼれ落ちたものはそのままにしておく。無理に論理的である必要はない。そうしてできあがったドラマが、今の自分たちの問題かどうか検討する。自分たちに何の関連もなく、奮い立たせるものがなかったら、その作品と向き合うことはやめる。
というわけで、このテーマはぼくには何のおもしろいテーマでも、語ってみたいテーマでもないことが分かったたため、ここで話を打ち切る。
結局何を言いたかったことやら・・・
こういう失敗もよくあることさ!
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