時期はずれなのかもしれないが、フランソワ・トリュフォーへのインタビューを集めた本を読んでいる。トリュフォーが批評家だった時代や、初期の作品の時代のところを読んでいるからか、彼らヌーヴェル・ヴァーグの若者たちが、どのようにして映画を選別し、良い映画を熱烈に擁護し、自分の作品に反映させていったのか、興味が尽きることはない。
映画を一番勉強させてくれる場所はスクリーンであること。
トリュフォーは助監督の経験をしていない。助監督が模倣するのは古典作品でなく、自分がついた監督のやりかたであるといっている。受け継がれるのは、スタイルの伝統であって、作品の本質的なことでない。
まあ、もちろん、トリュフォーは徒弟修業を否定するわけではない。
スクリーンで映画を見て鍛える修業を抜きにしては、新しい映画は作れないという、政治的な立場の表明にすぎない。
映画づくりが産業化し、アマチュアが映画づくりをやめてしまったことが決定的なことになってしまった。専門化と分業化そして産業化が、巨大企業をつくり、映画は個人のレベルから大集団の共同責任のレベルに達してしまったかのようだ。莫大な制作費はふくれあがるばかりだ。
そんなに金を使わなくてもいい映画を作れるよ。というのがヌーヴェル・ヴァーグのひとつの主張でもあった。スターを使わないこと、スタジオを離れてロケーションを多用することのふたつ。
「つまり、新しい映画の本質的努力は、映画産業からいかに身を解き放つか、ということにあった・・・わたしたちは、自由に仕事をするためにはすべてを単純化しなければならない。単純な主題をもつ貧しい映画をつくらなければならない・・・つまり度重なる拒絶ということ。エキストラの拒絶、芝居じみた筋書きの拒絶、おおげさな舞台装置の拒絶、説明的なシーンの拒絶」 (トリュフォー)
今日は、すべて引用に終始した。
いい勉強になり、いろんなことをわかりかけている。
あとは自分自身のことばで自分にいいきかせるだけだ。
映画を一番勉強させてくれる場所はスクリーンであること。
トリュフォーは助監督の経験をしていない。助監督が模倣するのは古典作品でなく、自分がついた監督のやりかたであるといっている。受け継がれるのは、スタイルの伝統であって、作品の本質的なことでない。
まあ、もちろん、トリュフォーは徒弟修業を否定するわけではない。
スクリーンで映画を見て鍛える修業を抜きにしては、新しい映画は作れないという、政治的な立場の表明にすぎない。
映画づくりが産業化し、アマチュアが映画づくりをやめてしまったことが決定的なことになってしまった。専門化と分業化そして産業化が、巨大企業をつくり、映画は個人のレベルから大集団の共同責任のレベルに達してしまったかのようだ。莫大な制作費はふくれあがるばかりだ。
そんなに金を使わなくてもいい映画を作れるよ。というのがヌーヴェル・ヴァーグのひとつの主張でもあった。スターを使わないこと、スタジオを離れてロケーションを多用することのふたつ。
「つまり、新しい映画の本質的努力は、映画産業からいかに身を解き放つか、ということにあった・・・わたしたちは、自由に仕事をするためにはすべてを単純化しなければならない。単純な主題をもつ貧しい映画をつくらなければならない・・・つまり度重なる拒絶ということ。エキストラの拒絶、芝居じみた筋書きの拒絶、おおげさな舞台装置の拒絶、説明的なシーンの拒絶」 (トリュフォー)
今日は、すべて引用に終始した。
いい勉強になり、いろんなことをわかりかけている。
あとは自分自身のことばで自分にいいきかせるだけだ。
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