新国立オペラのプッチーニの作品。
オペラのことを語るには、年季が足りないが、見たまま、聴いたまま、感じたままを綴る。
オペラを観ていつも感じるのは、自分が客席にいて、音楽の豊穣な波に飲み込まれて、さまざまなことを想像していることだ。それは、そのオペラの内容にかかわることでなくてもいっこう構わない。内容から連想されること、見えて聞こえることから導き出されること。想像力が翼を生やし、音に包み込まれて、夢を見ている、という言い方は陳腐なものか?しかし、そういう表現があてはまるような状態にあることは確かだ。
現代演劇を観劇するときに迷惑する、周囲の騒々しさも、音に飲み込まれる。
まあ、オペラについて語る必要はあるまい。この上演について思ったことをひとつふたつ。
まず、演出家のホモキが持ち出したテーマ、移住者の心、祖国を失った者のテーマは、パンフレットを読むまでもなく、理解でき、また常にそこを底辺とした物語になっていて、しかも明確に描き出されていた点は感心する。終始一貫、根無し草的な人間が、ある仕事、ある事情で集うこと。移住の国。放浪が大いに許容される国。終幕に合唱で「もうあのふたりは戻って来ない」というところでは、テーマの対するひとつの回答が提出されていた。
この、テーマに基づき、その文法で物語を語るという、演出家の手法は、常套であり、また正統でもあるのだが、この上演のように、単純明快に提出されている事例に出会うことは、あまり多いとはいえない。今回の上演がまるで底の浅いものと勘違いしてしまうくらいだ。
ただし、ダンボールの舞台装置、なにが詰まっているのか最後まで分からなかったカートの荷物、多国籍を説明しすぎて無国籍になった衣装は、まったくの失敗だとぼくは思う。
物語の主題を抽出するときのホモキは、明快で思い切っているのだが、それを視覚で語るときの手法は説明過多であり、本質の抽出は見当たらなかった。舞台装置、小道具、衣装のなにかひとつのものが、移民の悲しみを語るものとして特権化してはじめて、舞台上に存在できるものなのに・・・字幕によって、ああ、あの場面は酒場だったのね、ああ、原本ではドアがあったのねとわかるようでは、興ざめしてしまう。
オペラの独壇場なのが、音楽の言語でドラマを語ること。これを見たいがために、ここに感激したいがために、オペラがあるのではないか?ぼくは現代演劇を見慣れているせいか、オペラとの差異はここにあると思っている。音楽の規律でドラマを叙述すること。すべては音楽から始まること。
今回、特に気に入ったのは、最後の場面、二人が新たな土地へ旅立ち、そのふたりの歌は遠くから聞こえるように、残された者たちの合唱は舞台前面で主旋律を奏でる。この大合唱は二重唱として、テーマに即しながら、対照的な効果をだしていた。
音楽、しかも声楽ということで、ドラマの頂点や終末、要所要所のポイントなどは、激しく情を揺さぶる。台詞劇では到達できない地点である。仕方がないのだが、オペラやミュージカルが羨ましい。
また、前文に関連して。今回の作品がなじみが薄いもののせいか、ひとつひとつの曲、アリアが無名性をもっていたので、ブラヴォーと拍手に中断させられることがなかったのは嬉しかった。ぼくは、基本的にブラヴォー・拍手は、幕の切れ目ぐらいでいいと思っている。まあ、鳥肌がたつようなアリアに感激して敬意を表する気持ちは分かるのだが・・・
もうひとつ。今度はネガティヴな意見。群衆の演技は陳腐で見ていられないレベルだった。あの身振りの過剰と、意味のなさは一体何なのだろう?どこから出てくるのだろう?あきれた。
もうひとつ。ミニーがいかさまポーカーをした場面。微笑ましいというか、苦笑いというか・・・あれはないだろ台本作者!もしくは、それをうまく場面化したホモキ!賭博師があんな幼稚ないかさまにひっかかるかい?
作曲:ジャコモ・プッチーニ
演出:アンドレアス・ホモキ
指揮:ウルフ・シルマー
オペラのことを語るには、年季が足りないが、見たまま、聴いたまま、感じたままを綴る。
オペラを観ていつも感じるのは、自分が客席にいて、音楽の豊穣な波に飲み込まれて、さまざまなことを想像していることだ。それは、そのオペラの内容にかかわることでなくてもいっこう構わない。内容から連想されること、見えて聞こえることから導き出されること。想像力が翼を生やし、音に包み込まれて、夢を見ている、という言い方は陳腐なものか?しかし、そういう表現があてはまるような状態にあることは確かだ。
現代演劇を観劇するときに迷惑する、周囲の騒々しさも、音に飲み込まれる。
まあ、オペラについて語る必要はあるまい。この上演について思ったことをひとつふたつ。
まず、演出家のホモキが持ち出したテーマ、移住者の心、祖国を失った者のテーマは、パンフレットを読むまでもなく、理解でき、また常にそこを底辺とした物語になっていて、しかも明確に描き出されていた点は感心する。終始一貫、根無し草的な人間が、ある仕事、ある事情で集うこと。移住の国。放浪が大いに許容される国。終幕に合唱で「もうあのふたりは戻って来ない」というところでは、テーマの対するひとつの回答が提出されていた。
この、テーマに基づき、その文法で物語を語るという、演出家の手法は、常套であり、また正統でもあるのだが、この上演のように、単純明快に提出されている事例に出会うことは、あまり多いとはいえない。今回の上演がまるで底の浅いものと勘違いしてしまうくらいだ。
ただし、ダンボールの舞台装置、なにが詰まっているのか最後まで分からなかったカートの荷物、多国籍を説明しすぎて無国籍になった衣装は、まったくの失敗だとぼくは思う。
物語の主題を抽出するときのホモキは、明快で思い切っているのだが、それを視覚で語るときの手法は説明過多であり、本質の抽出は見当たらなかった。舞台装置、小道具、衣装のなにかひとつのものが、移民の悲しみを語るものとして特権化してはじめて、舞台上に存在できるものなのに・・・字幕によって、ああ、あの場面は酒場だったのね、ああ、原本ではドアがあったのねとわかるようでは、興ざめしてしまう。
オペラの独壇場なのが、音楽の言語でドラマを語ること。これを見たいがために、ここに感激したいがために、オペラがあるのではないか?ぼくは現代演劇を見慣れているせいか、オペラとの差異はここにあると思っている。音楽の規律でドラマを叙述すること。すべては音楽から始まること。
今回、特に気に入ったのは、最後の場面、二人が新たな土地へ旅立ち、そのふたりの歌は遠くから聞こえるように、残された者たちの合唱は舞台前面で主旋律を奏でる。この大合唱は二重唱として、テーマに即しながら、対照的な効果をだしていた。
音楽、しかも声楽ということで、ドラマの頂点や終末、要所要所のポイントなどは、激しく情を揺さぶる。台詞劇では到達できない地点である。仕方がないのだが、オペラやミュージカルが羨ましい。
また、前文に関連して。今回の作品がなじみが薄いもののせいか、ひとつひとつの曲、アリアが無名性をもっていたので、ブラヴォーと拍手に中断させられることがなかったのは嬉しかった。ぼくは、基本的にブラヴォー・拍手は、幕の切れ目ぐらいでいいと思っている。まあ、鳥肌がたつようなアリアに感激して敬意を表する気持ちは分かるのだが・・・
もうひとつ。今度はネガティヴな意見。群衆の演技は陳腐で見ていられないレベルだった。あの身振りの過剰と、意味のなさは一体何なのだろう?どこから出てくるのだろう?あきれた。
もうひとつ。ミニーがいかさまポーカーをした場面。微笑ましいというか、苦笑いというか・・・あれはないだろ台本作者!もしくは、それをうまく場面化したホモキ!賭博師があんな幼稚ないかさまにひっかかるかい?
作曲:ジャコモ・プッチーニ
演出:アンドレアス・ホモキ
指揮:ウルフ・シルマー
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