わやしたちは見たこと、聞いたことすべてを憶えていることはできない。忘れる度合いが小さいか大きいかによって、記憶力や観察力があるかないか判断される。まあ、情報量は莫大、というより無限大だし、人間は自分に関係するものを功利的に収集するものだから、忘れたものを惜しむことより、はっきりと、これは見た、これは聞いたというものを問題とするのがよい。
見たものをただ見たままに述べることも難しい。多かれ少なかれ、見たことを自分のなかで論理的に整理し、また、語法的な整理、対心理的な説明、記憶の薄いところは脚色もまじり、結局は、発話者の視線、意見といった取り扱いとなる。
また、見たことをことばで説明する以上、言語活動となり、そこには、ことばの意味と、実際の対象となる事物の溝はどのようにしてもうめきれない。
で、そんなことを問題にしていると、これはもう言語哲学の問題となり、見ることという行動的な問題でなくなってしまうので、これ以上は深入りしない。
言いたかったことを、こんな遠回りしながら言う必要はないんじゃないか?
要は、世界の見方、ものの見方は、たえず学び直す必要があるということ。
自分はまだ世界をほとんど発見できていないことを知り、つねに新たに見直す必要があるということ。見直すからには、同じ視点・視角からでなく、さまざまな位置から見直さなければ意味はない。
そして、いったん自分のみたものも、あるひとつの見方であり、それはそれで尊重すべきだけれど、同じように複数の見方も尊重しなければいけない。
人それぞれに道理がある。
同じく、ひとそれぞれに見方・考え方がある。
そして、考えてみれば、自分自身のなかにもそれぞれの見方があるべきなのだ。
いろんな角度から物事を検討しろと、人はいう。複数の人物が集まれば、それは可能だが、人間ひとりのなかに複眼の思考をもつのは、絶望的に難しい。
ひらりひらりと立場をかえてみても、思考するのは自分ひとり。
ビルの7階から見た景色と8階からの景色の違いを鮮やかに知覚できる人がいようか?
そして、7階にいるということは、見たことではなくて、情報として知っていたこと。そこから判断を導き出すのがおちじゃないか?
が、しかし。
立ち止まっていても仕方ない。
見ることを徹底的に学びなおさなければ。
そして、たとえば、男であるぼくに女の見方はできないことを絶望するのでなく、まるで開き直って、さまざまな立場から見ることに挑まなければ。
見たものをただ見たままに述べることも難しい。多かれ少なかれ、見たことを自分のなかで論理的に整理し、また、語法的な整理、対心理的な説明、記憶の薄いところは脚色もまじり、結局は、発話者の視線、意見といった取り扱いとなる。
また、見たことをことばで説明する以上、言語活動となり、そこには、ことばの意味と、実際の対象となる事物の溝はどのようにしてもうめきれない。
で、そんなことを問題にしていると、これはもう言語哲学の問題となり、見ることという行動的な問題でなくなってしまうので、これ以上は深入りしない。
言いたかったことを、こんな遠回りしながら言う必要はないんじゃないか?
要は、世界の見方、ものの見方は、たえず学び直す必要があるということ。
自分はまだ世界をほとんど発見できていないことを知り、つねに新たに見直す必要があるということ。見直すからには、同じ視点・視角からでなく、さまざまな位置から見直さなければ意味はない。
そして、いったん自分のみたものも、あるひとつの見方であり、それはそれで尊重すべきだけれど、同じように複数の見方も尊重しなければいけない。
人それぞれに道理がある。
同じく、ひとそれぞれに見方・考え方がある。
そして、考えてみれば、自分自身のなかにもそれぞれの見方があるべきなのだ。
いろんな角度から物事を検討しろと、人はいう。複数の人物が集まれば、それは可能だが、人間ひとりのなかに複眼の思考をもつのは、絶望的に難しい。
ひらりひらりと立場をかえてみても、思考するのは自分ひとり。
ビルの7階から見た景色と8階からの景色の違いを鮮やかに知覚できる人がいようか?
そして、7階にいるということは、見たことではなくて、情報として知っていたこと。そこから判断を導き出すのがおちじゃないか?
が、しかし。
立ち止まっていても仕方ない。
見ることを徹底的に学びなおさなければ。
そして、たとえば、男であるぼくに女の見方はできないことを絶望するのでなく、まるで開き直って、さまざまな立場から見ることに挑まなければ。
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