ぼくの大好きな映画、溝口健二の『近松物語』は、おさんと茂兵衛が駆け落ちおすることが、悲劇の発端となるのだが、ふたりの駆け落ちは恋愛から始まったのではない。さまざまな偶然が重なり、ふたりは一緒に京を離れなければならなくなる。不義密通の罪を恐れて、逃げ回るうちに、とうとう二人は本当の罪人になる。最後には胸を張って不義密通を犯す。
ぼくの友人が以前出演した一人芝居、内村直也の『お世辞』。この芝居でも、寄席の欠員で時間に穴が開くからと、無理矢理、演壇に押し出されて、漫談をするはめになる。
ま、単純に、いちど船から飛び込んで、泳ぎだしたからには、泳ぐことを躊躇している暇はない。腕を動かさなければならない。
何の気なしに、はじめたことが仕事となっている人も多いのじゃないかな?
もともとぼくには計画性がない。いや、計画をしても、その計画が不可能なものであったり、計画を遂行しようという気がおこらないんだな。舞台に上がったからには、あんちょこや、シナリオは手元におかない。それを参照するのさえ、恥ずかしいことだと思ってしまう。
成り行きまかせ。いい方向にもっていくのに、力はいらない。力で強引にことを動かすのは野暮だ。いたずらな風が吹いてくればいい。どこからかフルートの音が流れ込んでくればいい。
というよりも、自分に吹く風に便乗する術を身につけなければならない。
その風が、心地よい風であっても、冷たい風であっても、誘惑する風であっても、自分にその風が当たっていることを喜ばなければならない。
ぼくはいま、ある作品の公演をするために、準備し、交渉し、研究し、人と交わっている。うまくいかないことのほうが多いが、そんなつらい風でも「すべてよし」としなければならない。
いったん泳ぎだすと、あとはもう泳ぎ続けるのみ。案外泳ぐのって、楽しいし、すべてがうまくいくような気持ちになってきた。
陳腐な結論だけど、流れるプールで、強い流れに流される自分に快感を覚えたときがあった。自分の腕と足の一漕ぎで、流れのなかでさらに強い推進力を得た。そんなときは神にも似た気持ちになった。
ぼくの友人が以前出演した一人芝居、内村直也の『お世辞』。この芝居でも、寄席の欠員で時間に穴が開くからと、無理矢理、演壇に押し出されて、漫談をするはめになる。
ま、単純に、いちど船から飛び込んで、泳ぎだしたからには、泳ぐことを躊躇している暇はない。腕を動かさなければならない。
何の気なしに、はじめたことが仕事となっている人も多いのじゃないかな?
もともとぼくには計画性がない。いや、計画をしても、その計画が不可能なものであったり、計画を遂行しようという気がおこらないんだな。舞台に上がったからには、あんちょこや、シナリオは手元におかない。それを参照するのさえ、恥ずかしいことだと思ってしまう。
成り行きまかせ。いい方向にもっていくのに、力はいらない。力で強引にことを動かすのは野暮だ。いたずらな風が吹いてくればいい。どこからかフルートの音が流れ込んでくればいい。
というよりも、自分に吹く風に便乗する術を身につけなければならない。
その風が、心地よい風であっても、冷たい風であっても、誘惑する風であっても、自分にその風が当たっていることを喜ばなければならない。
ぼくはいま、ある作品の公演をするために、準備し、交渉し、研究し、人と交わっている。うまくいかないことのほうが多いが、そんなつらい風でも「すべてよし」としなければならない。
いったん泳ぎだすと、あとはもう泳ぎ続けるのみ。案外泳ぐのって、楽しいし、すべてがうまくいくような気持ちになってきた。
陳腐な結論だけど、流れるプールで、強い流れに流される自分に快感を覚えたときがあった。自分の腕と足の一漕ぎで、流れのなかでさらに強い推進力を得た。そんなときは神にも似た気持ちになった。
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