思い起こせば、ぼくはいろいろなものを壊してきた。
まっさきに思い浮かぶのが、ラジカセ。部屋に床置きしていたら、蹴飛ばしてしまいCDのふたが取れてしまった。
音楽をやっていたこともあり、ラジカセは何度も何度も故障しては、新しいものを買い換えていたような気がする。
汚れや、使用頻度の過剰や、寿命もあるのだが、こんなにもラジカセやコンポが故障してしまうのは、自分に電磁波を発する力があって、その電磁波で機械が壊れるのだと本気で信じてしまいそうになるくらいだった。
電気製品はそれこそ何度もダメにした。
小学校時代は教科書をきれいに使うことはできなかったし、靴はすぐ穴があくし、靴下は穴があいてないのを探すほうが難しいくらいだ。
携帯電話も落として壊したし、車に踏まれて粉々になったこともあったっけな。
パンツはすぐひもがゆるくなるし、手袋は必ず片方紛失するし・・・
要するにズボラということか・・・
人間関係は不思議とそれほどの破綻はないと、自分では信じている。おそらく、人間関係に関しては気を使うし、破壊するにも相手と共同で一緒にするものだから、踏みとどまっているのか?
恋愛も、壊す原因はきっとぼくにあるのだろうが、こんな大事なものをみすみす破壊するままにさせないし、きっと、人を物として見ることになってしまったらおしまいなのだろうな。
これだけ負の要素を抱え込みながらも、あえて自分の正当性を主張するのは気がふれているのか?
ぼくは、それでも、人は壊すことによってまた新たな物を手に入れる可能性を持つ、その未来志向性を尊いものだと思いたい。
舞台セットも大いなる無駄なのかもしれないが、作っては壊す。
計画というものは自分の外に出て、人々の間にさらされた時点で、もう壊される運命を背負っているのだ。
そもそも、弁証法的な過程がない思想なり計画はその名に値しない。
スタニフラフスキーは自分の経験から引き出してきたそれまでの演劇術を、晩年ではすっかり捨て去って、進化をとげていたというではないか?
バッハのゴールドベルク組曲も、アリアに戻るためにどれだけ紆余曲折し、変化していったことか!
壊すということは新しくなるための、生命の分岐点なのだ。
正当化しすぎであろうか?
そして、これは比喩だ、暴力や戦争の肯定でない、などと注釈をいれなければならないのがわずらわしいのだが・・・
まっさきに思い浮かぶのが、ラジカセ。部屋に床置きしていたら、蹴飛ばしてしまいCDのふたが取れてしまった。
音楽をやっていたこともあり、ラジカセは何度も何度も故障しては、新しいものを買い換えていたような気がする。
汚れや、使用頻度の過剰や、寿命もあるのだが、こんなにもラジカセやコンポが故障してしまうのは、自分に電磁波を発する力があって、その電磁波で機械が壊れるのだと本気で信じてしまいそうになるくらいだった。
電気製品はそれこそ何度もダメにした。
小学校時代は教科書をきれいに使うことはできなかったし、靴はすぐ穴があくし、靴下は穴があいてないのを探すほうが難しいくらいだ。
携帯電話も落として壊したし、車に踏まれて粉々になったこともあったっけな。
パンツはすぐひもがゆるくなるし、手袋は必ず片方紛失するし・・・
要するにズボラということか・・・
人間関係は不思議とそれほどの破綻はないと、自分では信じている。おそらく、人間関係に関しては気を使うし、破壊するにも相手と共同で一緒にするものだから、踏みとどまっているのか?
恋愛も、壊す原因はきっとぼくにあるのだろうが、こんな大事なものをみすみす破壊するままにさせないし、きっと、人を物として見ることになってしまったらおしまいなのだろうな。
これだけ負の要素を抱え込みながらも、あえて自分の正当性を主張するのは気がふれているのか?
ぼくは、それでも、人は壊すことによってまた新たな物を手に入れる可能性を持つ、その未来志向性を尊いものだと思いたい。
舞台セットも大いなる無駄なのかもしれないが、作っては壊す。
計画というものは自分の外に出て、人々の間にさらされた時点で、もう壊される運命を背負っているのだ。
そもそも、弁証法的な過程がない思想なり計画はその名に値しない。
スタニフラフスキーは自分の経験から引き出してきたそれまでの演劇術を、晩年ではすっかり捨て去って、進化をとげていたというではないか?
バッハのゴールドベルク組曲も、アリアに戻るためにどれだけ紆余曲折し、変化していったことか!
壊すということは新しくなるための、生命の分岐点なのだ。
正当化しすぎであろうか?
そして、これは比喩だ、暴力や戦争の肯定でない、などと注釈をいれなければならないのがわずらわしいのだが・・・
コメント
コメントを投稿