この朗読劇はリンカンの生涯を綴ったもので、ぼくの大学時代の恩師、荒井良雄先生がR.E.シャーウッドの劇を再構成し、翻訳した郡読劇である。登場人物を絞り込み、リンカンが大統領に就任するまでの苦闘を描いている。焦点は、リンカンが愛し、また愛された、恋人や協力者との葛藤や、自分や協力者の問題と政治的な使命感の間の揺れ動きにある。
ぼくは朗読劇に懐疑的ではあるのだが、そのことは置いておくにしても、テキストとにらめっこしながら朗誦する俳優の姿をみるにつけ、もっと違った上演方法はないのか、どうしてそこで急に声をはりあげるのか、中途半端に顔をしかめるのはなんなのか、といった細かくはあるが、重大な疑問を抱え込んでしまった。
台本を媒介にして、朗読を聞かせる劇とはいえ、そこには作家の言いたい真実や詩があるはず。そこにどっかり腰をすえて、その詩から出発し、俳優を仲立ちにし、観客はその詩に到達する。
俳優が詩人の仕事を邪魔だてし、そこに技術的な抑揚や、よそもののような安易な感情や、陳腐な芝居ごとを持ち込んだりしたら、印象に残るものは、俳優の技芸だけでではないか?
それならいっそ、棒読みでも、椅子に座ったままでも、作品の世界を単純に読み上げるほうが、伝わるものが多いのではないか?
中途半端が一番いけない。
舞台として、登場人物が立って向かい合うからには、その役同士になにかしらの交流・火花があるものを期待する。現実ではどんな些細な状況でもそれがある。
しかしこの上演は、同じ空間で向かい合いながらも、俳優が個人個人の技量の範囲内で読み上げていた気がする。
隣にいてもひとり。
構成・翻訳がわが恩師であり、出演者に友人もいたのだが、こんなにネガティヴな発言をしてしまう。
ただただ、良い劇をみたい。
良い劇をつくりたい。
原作:R.E.シャーウッド
翻訳・朗読台本:荒井良雄
演出:吉岩正晴
ぼくは朗読劇に懐疑的ではあるのだが、そのことは置いておくにしても、テキストとにらめっこしながら朗誦する俳優の姿をみるにつけ、もっと違った上演方法はないのか、どうしてそこで急に声をはりあげるのか、中途半端に顔をしかめるのはなんなのか、といった細かくはあるが、重大な疑問を抱え込んでしまった。
台本を媒介にして、朗読を聞かせる劇とはいえ、そこには作家の言いたい真実や詩があるはず。そこにどっかり腰をすえて、その詩から出発し、俳優を仲立ちにし、観客はその詩に到達する。
俳優が詩人の仕事を邪魔だてし、そこに技術的な抑揚や、よそもののような安易な感情や、陳腐な芝居ごとを持ち込んだりしたら、印象に残るものは、俳優の技芸だけでではないか?
それならいっそ、棒読みでも、椅子に座ったままでも、作品の世界を単純に読み上げるほうが、伝わるものが多いのではないか?
中途半端が一番いけない。
舞台として、登場人物が立って向かい合うからには、その役同士になにかしらの交流・火花があるものを期待する。現実ではどんな些細な状況でもそれがある。
しかしこの上演は、同じ空間で向かい合いながらも、俳優が個人個人の技量の範囲内で読み上げていた気がする。
隣にいてもひとり。
構成・翻訳がわが恩師であり、出演者に友人もいたのだが、こんなにネガティヴな発言をしてしまう。
ただただ、良い劇をみたい。
良い劇をつくりたい。
原作:R.E.シャーウッド
翻訳・朗読台本:荒井良雄
演出:吉岩正晴
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