シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は単純に純愛を描いた作品でない、というのはぼくの持論であるが、そもそもこの話はかなり古くの民話として伝えられていた話というし、多くの作家が手を染めてきた題材らしい。
『お夏清十郎』も、語り継がれてきた話で、少なくとも、有名なものでは、井原西鶴、近松門左衛門、坪内逍遥、真山青果などが作品化している。
『お夏清十郎』に関しても、ただの純愛ではない。
そもそも単なる純愛という言い方は、適当な言い回しなのだろうか?
『ロミオとジュリエット』に話を戻すと、ふたりの若者の間に横たわるのは、激しくいがみあい、格闘しあうふたつの家の対立である。両家の溝は、長い間にわたって培われ、増殖され、鋭利なものとなっていく。
作品の冒頭が、血のイメージとその犠牲を語る序詞役の登場で始まり、それに続くのが武装した男たち。そして喧嘩がはじまる。
イスラエルとパレスチナ、などと現代におきかえて考えるまでもなく、一触即発の事態なのだ。この危険地帯に愛が芽生えるのだから、人間の生命力はおもしろい。断崖にきれいな花が咲くように・・・
刃物の飛び交う世界に、手ぶらで愛を語るものがいれば、その行為だけで立派な抗議行動になる。
ロミオとジュリエットは、憎しみの生み出す泥沼の対立に、否定の行為を示した。ふたりがどんなに若くても、恋をはぐくむ年頃だ、自分たちを取り囲む環境がどういうものかも分かっているし、ふたりの恋が実ったらどういう影響を与えるかも分かっている。
日本でも、戦争中、恋だの文学だの映画だの絵画だのにうつつをぬかしている人間を、軟弱者だとあざけったではないか?実利だけが重んじられる時勢に、意味のないように思われる恋の小説を耽読する勇気をもったなら、それは無邪気に行った行為だとは言えまい。
自分を取り囲む世界に異を唱える。しかも、素手でもって、暴力もせず、協同で。感受性が鈍らされていない若者、もしくは、人間や社会に対して無知であるがゆえに思い切った行動をとれる若者、そして、貧しい所有ではあるが初体験の機会に豊富に恵まれている若者が、世界に待ったをかける。
世界はたえず更新されなければ腐敗する。
そして、年齢にかかわらず、若い者が、若い心を持ったものが、恋を持った者が、思い切った行動を起こせるのではないかと期待する。
『ロミオとジュリエット』はそんな可能性を感じさせる青春の物語である。
ロミオとジュリエット(その2)
ロミオとジュリエット(その3)
『お夏清十郎』も、語り継がれてきた話で、少なくとも、有名なものでは、井原西鶴、近松門左衛門、坪内逍遥、真山青果などが作品化している。
『お夏清十郎』に関しても、ただの純愛ではない。
そもそも単なる純愛という言い方は、適当な言い回しなのだろうか?
『ロミオとジュリエット』に話を戻すと、ふたりの若者の間に横たわるのは、激しくいがみあい、格闘しあうふたつの家の対立である。両家の溝は、長い間にわたって培われ、増殖され、鋭利なものとなっていく。
作品の冒頭が、血のイメージとその犠牲を語る序詞役の登場で始まり、それに続くのが武装した男たち。そして喧嘩がはじまる。
イスラエルとパレスチナ、などと現代におきかえて考えるまでもなく、一触即発の事態なのだ。この危険地帯に愛が芽生えるのだから、人間の生命力はおもしろい。断崖にきれいな花が咲くように・・・
刃物の飛び交う世界に、手ぶらで愛を語るものがいれば、その行為だけで立派な抗議行動になる。
ロミオとジュリエットは、憎しみの生み出す泥沼の対立に、否定の行為を示した。ふたりがどんなに若くても、恋をはぐくむ年頃だ、自分たちを取り囲む環境がどういうものかも分かっているし、ふたりの恋が実ったらどういう影響を与えるかも分かっている。
日本でも、戦争中、恋だの文学だの映画だの絵画だのにうつつをぬかしている人間を、軟弱者だとあざけったではないか?実利だけが重んじられる時勢に、意味のないように思われる恋の小説を耽読する勇気をもったなら、それは無邪気に行った行為だとは言えまい。
自分を取り囲む世界に異を唱える。しかも、素手でもって、暴力もせず、協同で。感受性が鈍らされていない若者、もしくは、人間や社会に対して無知であるがゆえに思い切った行動をとれる若者、そして、貧しい所有ではあるが初体験の機会に豊富に恵まれている若者が、世界に待ったをかける。
世界はたえず更新されなければ腐敗する。
そして、年齢にかかわらず、若い者が、若い心を持ったものが、恋を持った者が、思い切った行動を起こせるのではないかと期待する。
『ロミオとジュリエット』はそんな可能性を感じさせる青春の物語である。
ロミオとジュリエット(その2)
ロミオとジュリエット(その3)
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