今日は一日雨だった。
雨というと思い出すのが、小学校時代。下校する道の途中に側溝が続いていて、雨の日になると雨水がそこを勢いよく流れていく。ぼくはそこに草舟を浮かべ、友達と一緒のときは、草舟の競争をしたものだ。側溝を流れる草舟をずっと見逃さないように、追い続け、下校のたのしみとしたものだ。
小学校時代といえば、ぼくは靴の扱いが悪く、すぐ親指のところから穴があいてしまう。今考えてみれば、登校・下校のときに石けりをしてばっかりいた。石を直接けるというより、アスファルトごと蹴っていたのだから穴はあくものだな。
なにも、回想にふけって、センチメンタルになっているのではない。
今現在のぼくなら、帰宅のときに、子供のように熱中した遊びをしながら帰るということは、考えられない。そりゃあ、物思いにふけりながら歩くことはよくある。しかし考え事に没頭してしまうことはない。なぜだろう?
真剣さ。遊びに対する真剣さ。飽きることなく次から次へと遊んでいく。知らない遊びはしない。自分の知っていること、自分の支配できることを、十分な真剣さでもって行う。つねに行う。
いまさら子どもに戻れといわれても面食らうだけだが、遊びにたいする真剣さは取り戻したいと思う。それが、見せかけや虚栄でなく、本当に、ささいなことに没頭していたい。
これは五月病の兆候か?
雨というと思い出すのが、小学校時代。下校する道の途中に側溝が続いていて、雨の日になると雨水がそこを勢いよく流れていく。ぼくはそこに草舟を浮かべ、友達と一緒のときは、草舟の競争をしたものだ。側溝を流れる草舟をずっと見逃さないように、追い続け、下校のたのしみとしたものだ。
小学校時代といえば、ぼくは靴の扱いが悪く、すぐ親指のところから穴があいてしまう。今考えてみれば、登校・下校のときに石けりをしてばっかりいた。石を直接けるというより、アスファルトごと蹴っていたのだから穴はあくものだな。
なにも、回想にふけって、センチメンタルになっているのではない。
今現在のぼくなら、帰宅のときに、子供のように熱中した遊びをしながら帰るということは、考えられない。そりゃあ、物思いにふけりながら歩くことはよくある。しかし考え事に没頭してしまうことはない。なぜだろう?
真剣さ。遊びに対する真剣さ。飽きることなく次から次へと遊んでいく。知らない遊びはしない。自分の知っていること、自分の支配できることを、十分な真剣さでもって行う。つねに行う。
いまさら子どもに戻れといわれても面食らうだけだが、遊びにたいする真剣さは取り戻したいと思う。それが、見せかけや虚栄でなく、本当に、ささいなことに没頭していたい。
これは五月病の兆候か?
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