グレン・グールドのピアノ曲を聴き、弾むような、そして一音一音がつぶだってはっきりと聞こえる、あの、スタッカート。グールド自身、人生にスタッカートのようなかかわり方をしていたかのように思えてしまう逸話の数々。
鍵盤から指が離れる間際、そこにあらゆる音楽がつまっているかのように、美しく、澄んだ音が、沈黙へ流れ込む。音が、沈黙があるゆえに自らをふちどり、存在を確立するかのようだ。
都心の喧騒は、公園や住宅地の静寂によって、自分の地位を確認しているのであろうか?
人間の話し声の集積なら、ふとしたときに、予想外の沈黙を生み出すことがある。電車の中で、飛び交う言葉の群れが息抜きをしたときの、あの奇妙なバツの悪さはなんなのであろうか?まるで、突然訪れた沈黙を恥じるように、耳をすまして、音の来訪を待つ。その瞬間、音は時間の流れを断ち切って、空間を切り裂く。
あのやかましい車の音でさえ、信号の切り替わりのときに、深く息を吸い込んだあと、奔流のように音を流し込む。
その一瞬はなんなのであろう?
「芸術は、沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか」(武満徹)
また、同じひとは言う
「音楽は、音か沈黙か、そのどちらかである。私は生きるかぎりにおいて、沈黙に抗議するものとしての<音>を択ぶだろう。
それは強いひとつの音でなければならない」 (武満徹)
なにげなく生活をしているこの世界に音が溢れ、それがわたしたちの意識の下を、あざ笑うかのように素通りするする。失うものの量は大きい。
かといって、すべての音を偏執狂的に収集したところで、得るものは少ない。
わたしたちがこの世界の音のひとつにでも意識を傾けたとき、世界が理解できた気持ちになるのは、大いなる勘違いとばかり言えようか?
ぼくたち、芸術を志す者は、武満の言うように、強い音を鳴らさなければならない。そして、その強い音の隣には、おしとやかな沈黙が伴侶のように寄り添っている。世界を音として把握するには、そんな夫婦を引き離さずに喜んで迎えなければならない。ああ、それが口でいうぶんには簡単なのだが、実際に考えはじめてみると・・・
音、沈黙と測りあえるほどに(1)
試し続ける人たち
戦いのマニフェスト
鍵盤から指が離れる間際、そこにあらゆる音楽がつまっているかのように、美しく、澄んだ音が、沈黙へ流れ込む。音が、沈黙があるゆえに自らをふちどり、存在を確立するかのようだ。
都心の喧騒は、公園や住宅地の静寂によって、自分の地位を確認しているのであろうか?
人間の話し声の集積なら、ふとしたときに、予想外の沈黙を生み出すことがある。電車の中で、飛び交う言葉の群れが息抜きをしたときの、あの奇妙なバツの悪さはなんなのであろうか?まるで、突然訪れた沈黙を恥じるように、耳をすまして、音の来訪を待つ。その瞬間、音は時間の流れを断ち切って、空間を切り裂く。
あのやかましい車の音でさえ、信号の切り替わりのときに、深く息を吸い込んだあと、奔流のように音を流し込む。
その一瞬はなんなのであろう?
「芸術は、沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか」(武満徹)
また、同じひとは言う
「音楽は、音か沈黙か、そのどちらかである。私は生きるかぎりにおいて、沈黙に抗議するものとしての<音>を択ぶだろう。
それは強いひとつの音でなければならない」 (武満徹)
なにげなく生活をしているこの世界に音が溢れ、それがわたしたちの意識の下を、あざ笑うかのように素通りするする。失うものの量は大きい。
かといって、すべての音を偏執狂的に収集したところで、得るものは少ない。
わたしたちがこの世界の音のひとつにでも意識を傾けたとき、世界が理解できた気持ちになるのは、大いなる勘違いとばかり言えようか?
ぼくたち、芸術を志す者は、武満の言うように、強い音を鳴らさなければならない。そして、その強い音の隣には、おしとやかな沈黙が伴侶のように寄り添っている。世界を音として把握するには、そんな夫婦を引き離さずに喜んで迎えなければならない。ああ、それが口でいうぶんには簡単なのだが、実際に考えはじめてみると・・・
音、沈黙と測りあえるほどに(1)
試し続ける人たち
戦いのマニフェスト
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