2007年4月7日(土)
『別れの唄』
今日、シアタートラムで日仏合同公演をみてきた。平田オリザが4年かけて作り上げたプロジェクトだとかいう。戯曲にも、演出にも、舞台装置にもその形跡が残されていた。
中心になるテーマは異文化のズレ。この枠からはみ出ることなく、物語としては広がりが欠けるのだが、主題となる様々な点、すなわち、葬式をめぐる国籍間の差異、そこに浮き出る誤解、ゆくゆくは理解にいたる過程、普遍的な人間性などが展開されていくことで、物語的な狭さは、かえってその狭さゆえに、主題的な幅の広さに道を譲り、豊富な切り口で、このお通夜前の夕方の集約された時間を意義深い、色彩の濃いものにしている。
観劇しながら、小津安二郎の映画を何度も思い起こしたのは、偶然ではない。作者にも、演出家にも、この映画監督の存在は、つねに片隅にあったであろう。普遍的な人間性、家族、そしてフランスという国。
抒情的なものが極端に省かれ、つねに差異を見つめるまなざしにあったことで、この世界がどんなものであるのかを楽しみながら学ぶことができた。
作者が日本人であること、公演の場所が日本であることから、この上演は日本人の立場から見た差異となったのだろう。たとえば、この公演がフランスで行われているときに、フランスのお客さんはどういう視点を、この上演に確保できるのか?それを想像するのはなかなか難しい。葬式の段取りひとつ、ほぼ知識もなにもない観客に飛び込んでくるものは、日本の文化的風土に育った人間には笑いとなるようなものであっても、まったくの異物にしか思えないのではないか?それとも、フランス人夫婦のような、驚きながらも、理解する態度をとるのだろうか?
さて、わたしたちは、ここからどこへ行こうとするのか?この点がはっきりと打ち出されていたことが、カリカチュアに終わった葬儀屋の存在も、風俗の説明的な会話も、にわかにフランス人とは(もしくは人間とは)信じられないようなおとなしさも乗り越えて、意義のある成功した舞台につながったのではないだろうか?
おもしろかった。観劇でこういった知性に訴えかけるものに出会ったのは、久しぶりだ。
作:平田オリザ 翻訳:ユタカ・マキノ
演出・美術:ロラン・グットマン
『別れの唄』
今日、シアタートラムで日仏合同公演をみてきた。平田オリザが4年かけて作り上げたプロジェクトだとかいう。戯曲にも、演出にも、舞台装置にもその形跡が残されていた。
中心になるテーマは異文化のズレ。この枠からはみ出ることなく、物語としては広がりが欠けるのだが、主題となる様々な点、すなわち、葬式をめぐる国籍間の差異、そこに浮き出る誤解、ゆくゆくは理解にいたる過程、普遍的な人間性などが展開されていくことで、物語的な狭さは、かえってその狭さゆえに、主題的な幅の広さに道を譲り、豊富な切り口で、このお通夜前の夕方の集約された時間を意義深い、色彩の濃いものにしている。
観劇しながら、小津安二郎の映画を何度も思い起こしたのは、偶然ではない。作者にも、演出家にも、この映画監督の存在は、つねに片隅にあったであろう。普遍的な人間性、家族、そしてフランスという国。
抒情的なものが極端に省かれ、つねに差異を見つめるまなざしにあったことで、この世界がどんなものであるのかを楽しみながら学ぶことができた。
作者が日本人であること、公演の場所が日本であることから、この上演は日本人の立場から見た差異となったのだろう。たとえば、この公演がフランスで行われているときに、フランスのお客さんはどういう視点を、この上演に確保できるのか?それを想像するのはなかなか難しい。葬式の段取りひとつ、ほぼ知識もなにもない観客に飛び込んでくるものは、日本の文化的風土に育った人間には笑いとなるようなものであっても、まったくの異物にしか思えないのではないか?それとも、フランス人夫婦のような、驚きながらも、理解する態度をとるのだろうか?
さて、わたしたちは、ここからどこへ行こうとするのか?この点がはっきりと打ち出されていたことが、カリカチュアに終わった葬儀屋の存在も、風俗の説明的な会話も、にわかにフランス人とは(もしくは人間とは)信じられないようなおとなしさも乗り越えて、意義のある成功した舞台につながったのではないだろうか?
おもしろかった。観劇でこういった知性に訴えかけるものに出会ったのは、久しぶりだ。
作:平田オリザ 翻訳:ユタカ・マキノ
演出・美術:ロラン・グットマン
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