一日一日が過ぎて行く。当然のことだが。
風邪をひいてから完全には回復していなくて、万全というわけではない。
身の回りのことも、劇的ではないが、微妙に変化してきている。いい兆候かもしれない。
忙しい日々も徐々にやってきて、その忙しさが快感なのかもしれない。
意識もいろいろなところに拡散していて、その慌ただしさが良かったりする。
睡眠時間も徐々に規則的になってきている。
なんだろうな。
ひとりの人間が分からなくなるときがある。普段から会っている人もそうだし、一年に一度しか会わない人もそうだし。その人と自分がどんな関係なのかななんて考えたりする。
三年に一度しか会わなくても、気持ちよく会える人もいる。毎日顔を合わせていても、微妙な距離感を保って接する人もいる。深く話し合えばそれが解消するかというとそうでもない。かえって、何だこの感覚は!と思うほど、すんなり打ち解けられる人もいる。
人を分かろうとする努力をどこまですればいいのか、なんても考える。結構ぼくなんかは、分かろうとしないように見えるらしいし、実際、付き合いがうんざりするときもある。話し合えば分かるというのでもない。話の表面に出てくる浅薄な言動なんていくら交わしても深く知ることにはならない。
あえ距離を取りながら、深くその人を尊敬するということもある。距離が近くなって、おもしろくないところを見たくはないのだ。
友達っておもしろいね。
あと2年も過ぎれば、今の混沌も整理されて、人を少しは深く知ることができる。そのかわり、また新たな混沌がやって来るのだろうが。
玄朴と長英。ふたりは、実際は取り立てて仲の良い人ではなかったらしい。その接点も見出しにくいのかもしれない。
しかし、いざ二人を同じ土俵に乗せてみると、おもしろい対比とともに、共通するものが見いだせる。人生への確固たる指標だ。
玄朴と長英の稽古も続けながらいろいろ考えた。それは俳優をやっていたときからそうだった。自分が今取り組んでいる戯曲の主要なテーマや出来事が、自分の人生を考えるいい契機になっているなと。つまり、自分が取り組んでいる戯曲に、少しではあるかもしれないけど、影響されているのだなと。
そんな影響というものがなければつまらないよな。同じように、お客さんも、観に来た演劇にそれを求めているのかもしれないと思うと、うかうかしていられないぞ。人生に影響を与える質の演劇を見たいのだ。それがつまり、おもしろい演劇というものじゃないのだろうか。
演技している役者や、かかわっているスタッフの、自分たちだけの満足だけでなく、いわば社会的な責任として、観客の人生に影響するような演劇を作ることを考えると、のんびりはしていられない。
どの世界でもお客さんは厳しい。
ぼくの仕事は、ある意味、スタッフでありながら、お客さんの位置に立つことも求められる。そんな移動を繰り返しながら物事を進めなければいけない。毎日をふんぞりかえってはいけない。どうしても安楽な位置を取りたがる。そのほうが安定しているのだから。でも、今までの常識や、方法や、視点を変えていかないと停滞してしまう。
デカルトが「疑うこと」から始めたように、いろいろと考えてみるのがいいのかもしれない。
友達に対しても、面倒くさがらず、また深く知ろうと試みたほうがいいのかもな。いろいろな掘り出し物があるようだぞ。
自分の人生が、真山青果の『玄朴と長英』で変化するようでないと、お客さんに伝わる核心をも捉えられないのではないか。自分の実体験を豊かにすることも、演劇に携わる人のいい利点だ。せっかくのテーマだ。自分なりに「友達関係」を揺さぶってみようか、と思う今日の夜長でした。
風邪をひいてから完全には回復していなくて、万全というわけではない。
身の回りのことも、劇的ではないが、微妙に変化してきている。いい兆候かもしれない。
忙しい日々も徐々にやってきて、その忙しさが快感なのかもしれない。
意識もいろいろなところに拡散していて、その慌ただしさが良かったりする。
睡眠時間も徐々に規則的になってきている。
なんだろうな。
ひとりの人間が分からなくなるときがある。普段から会っている人もそうだし、一年に一度しか会わない人もそうだし。その人と自分がどんな関係なのかななんて考えたりする。
三年に一度しか会わなくても、気持ちよく会える人もいる。毎日顔を合わせていても、微妙な距離感を保って接する人もいる。深く話し合えばそれが解消するかというとそうでもない。かえって、何だこの感覚は!と思うほど、すんなり打ち解けられる人もいる。
人を分かろうとする努力をどこまですればいいのか、なんても考える。結構ぼくなんかは、分かろうとしないように見えるらしいし、実際、付き合いがうんざりするときもある。話し合えば分かるというのでもない。話の表面に出てくる浅薄な言動なんていくら交わしても深く知ることにはならない。
あえ距離を取りながら、深くその人を尊敬するということもある。距離が近くなって、おもしろくないところを見たくはないのだ。
友達っておもしろいね。
あと2年も過ぎれば、今の混沌も整理されて、人を少しは深く知ることができる。そのかわり、また新たな混沌がやって来るのだろうが。
玄朴と長英。ふたりは、実際は取り立てて仲の良い人ではなかったらしい。その接点も見出しにくいのかもしれない。
しかし、いざ二人を同じ土俵に乗せてみると、おもしろい対比とともに、共通するものが見いだせる。人生への確固たる指標だ。
玄朴と長英の稽古も続けながらいろいろ考えた。それは俳優をやっていたときからそうだった。自分が今取り組んでいる戯曲の主要なテーマや出来事が、自分の人生を考えるいい契機になっているなと。つまり、自分が取り組んでいる戯曲に、少しではあるかもしれないけど、影響されているのだなと。
そんな影響というものがなければつまらないよな。同じように、お客さんも、観に来た演劇にそれを求めているのかもしれないと思うと、うかうかしていられないぞ。人生に影響を与える質の演劇を見たいのだ。それがつまり、おもしろい演劇というものじゃないのだろうか。
演技している役者や、かかわっているスタッフの、自分たちだけの満足だけでなく、いわば社会的な責任として、観客の人生に影響するような演劇を作ることを考えると、のんびりはしていられない。
どの世界でもお客さんは厳しい。
ぼくの仕事は、ある意味、スタッフでありながら、お客さんの位置に立つことも求められる。そんな移動を繰り返しながら物事を進めなければいけない。毎日をふんぞりかえってはいけない。どうしても安楽な位置を取りたがる。そのほうが安定しているのだから。でも、今までの常識や、方法や、視点を変えていかないと停滞してしまう。
デカルトが「疑うこと」から始めたように、いろいろと考えてみるのがいいのかもしれない。
友達に対しても、面倒くさがらず、また深く知ろうと試みたほうがいいのかもな。いろいろな掘り出し物があるようだぞ。
自分の人生が、真山青果の『玄朴と長英』で変化するようでないと、お客さんに伝わる核心をも捉えられないのではないか。自分の実体験を豊かにすることも、演劇に携わる人のいい利点だ。せっかくのテーマだ。自分なりに「友達関係」を揺さぶってみようか、と思う今日の夜長でした。
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