バイト先で、接客クレームの件で上司からお咎めを受けた。先週のお客さんがお客さま相談室に問い合わせしたのでしょう。はっきりと覚えているので、謝ったけどね。謝るのは下手ではない。しかも気持ちよく謝るのをモットーとしているところがあって、爽やかに、高原にそよ風が吹くように謝るのが好きだ。
だから、あんまり怒られはしないのだよ。時間的にも短く、事の重大性も軽くする。お咎めを受ける側が深刻になると、お咎めする側もきつく叱らなければいけない。受ける側が軽く爽やかにすると、叱る側も気が軽くなるものだ。お互いにとって良いことだ。
ときには「反省していない」などと、かえってきつく叱る人もいるが、反省はしているんだ。反省を重くすることが嫌いなだけだ。
何度かこんなことしている。するたびに反省はするけど、現場ではつい我慢できないのだな。
はっきりと覚えている。商品を袋に入れず、レシートを渡さなかった罪だ。たいていのお客さんが、どちらも要求しないし、品物的に袋に入れる必要のないものと判断した。勝手に判断するなというのは会社的な立場だろう。それも分かる。でもレジ袋の濫用もよくない。たいていのお客さんはきちんとそれを理解している。誰もが理解するのじゃないものなのだな。
袋が欲しければ「袋に入れて」と頼めば済むもの。それで気持ちよくやりとりできるのだが、この「袋に入れて」という言葉をかけないで、袋に入れてもらうまでずっと待っているお客さんがいる。こちらも何かを察して袋を用意するのだが、忙しくほかのお客さんに意識が行っているときは言われるまで放っておく。するとお客さんも黙っている。それが我慢ならないのだな。何か無性に腹立つ。「何で袋に入れないの」などと高飛車な態度に出られるとカチンとくる。
どうして「袋に入れて」とひとこと言えないの?
というか、言葉のやりとりで人に物を頼むというのが、結構、現代の人間に共通して弱くなっている気がする。「早くしろよ」とせかされるのも腹立つが、そういった竹を割ったような性格は分かりやすい。
しかし、相手が何を考えているかが分からないときほど、不気味なものはないだろう。「キレやすい」などといった問題も、そういったコミュニケーション不全が原因でもある。
物を頼むということは、お願いすることで人を動かすものなので、それなりのコミュニケーションとなる。演技をする役者でも、これが苦手な人がいる。お願いがお願いになっていない。
たとえば、「私にお吸い物をちょうだい」といえば、それは依頼となり、コミュニケーションは成立する。
しかし、「私はお吸い物がほしい」といったら、それは自分の願望ではありながら、人に働きかけることばではない。
実際、「お吸い物をちょうだい」といえば近くのお椀に即座に手が伸びるものだが、「お吸い物がほしい」と聞いたら、「だから?」とか「早く言えよ」とか思う可能性だってある。
お吸い物ならまだいい。
「邪魔だよ、どけよ」。立派なコミュニケーションである。
「そこにいるとぼくの邪魔になる」。回りくどい嫌味である。
言葉にだすならまだいい。言葉に出さず、「(何だよあいつ邪魔じゃないかよ。よおし、そのままぶつかってやれ)」と考えて突進してくる人もいる。
行動に移すなら、少なくとも分かりやすい。じっと、睨みつけて不満を悟ってほしい人が一番厄介だ。
そんなコミュニケーション不全が、徐々に蔓延している気がしてならない。仲間うちに対する異常なほどのコミュニケーションに比べ、他人に対する不全のほうは度を越しているくらいだ。
いやあ、自分のことを棚にあげ、いろいろ書いてしまったなあ。もともと、クレームの件からだったな。今日はそれなりに気をつけた。くどいくらい「袋に入れますか」と聞いた。答えてくれる人はいいのだが、無視する人や、答えようとしない人がいる。しかも、答えを自分にしか聞こえない小さな声で言う人もいる。また無性に腹が立つ。で、また、クレームもらうんだろうな、態度悪いって。
ぼくも声は大きくないが、意思表示はきちんとする。曖昧な状態が気持ち悪くて他人にも要求するのが悪い癖ではある。
というか、そんな意思表示ができる人を基準に考えてしまうから、それが出来ない人を物足りなく思うのかもしれない。意思表示しないのならそれでもいいが、こちらが要求したときにそれに応えてくれないのに腹が立つのかも。
そんな人は全体の20%もいないのかもしれないが、20%が30%に増えるのだけはごめんだ。
こんな不平不満はいくらでもあるから面白い。
面白くはない問題だが、こんな小さなことで腹が立つ自分がおもしろい。
しかも、これは結構根が深い。というのは、現代の問題として、問題視しているということ。大上段に構えてとらえているところがぼくらしいのかもな。
それで衝突してクレームを受けないようにしよう。
意地を張るのが衝突の一番の原因でもある。
笑い飛ばそう。
だから、あんまり怒られはしないのだよ。時間的にも短く、事の重大性も軽くする。お咎めを受ける側が深刻になると、お咎めする側もきつく叱らなければいけない。受ける側が軽く爽やかにすると、叱る側も気が軽くなるものだ。お互いにとって良いことだ。
ときには「反省していない」などと、かえってきつく叱る人もいるが、反省はしているんだ。反省を重くすることが嫌いなだけだ。
何度かこんなことしている。するたびに反省はするけど、現場ではつい我慢できないのだな。
はっきりと覚えている。商品を袋に入れず、レシートを渡さなかった罪だ。たいていのお客さんが、どちらも要求しないし、品物的に袋に入れる必要のないものと判断した。勝手に判断するなというのは会社的な立場だろう。それも分かる。でもレジ袋の濫用もよくない。たいていのお客さんはきちんとそれを理解している。誰もが理解するのじゃないものなのだな。
袋が欲しければ「袋に入れて」と頼めば済むもの。それで気持ちよくやりとりできるのだが、この「袋に入れて」という言葉をかけないで、袋に入れてもらうまでずっと待っているお客さんがいる。こちらも何かを察して袋を用意するのだが、忙しくほかのお客さんに意識が行っているときは言われるまで放っておく。するとお客さんも黙っている。それが我慢ならないのだな。何か無性に腹立つ。「何で袋に入れないの」などと高飛車な態度に出られるとカチンとくる。
どうして「袋に入れて」とひとこと言えないの?
というか、言葉のやりとりで人に物を頼むというのが、結構、現代の人間に共通して弱くなっている気がする。「早くしろよ」とせかされるのも腹立つが、そういった竹を割ったような性格は分かりやすい。
しかし、相手が何を考えているかが分からないときほど、不気味なものはないだろう。「キレやすい」などといった問題も、そういったコミュニケーション不全が原因でもある。
物を頼むということは、お願いすることで人を動かすものなので、それなりのコミュニケーションとなる。演技をする役者でも、これが苦手な人がいる。お願いがお願いになっていない。
たとえば、「私にお吸い物をちょうだい」といえば、それは依頼となり、コミュニケーションは成立する。
しかし、「私はお吸い物がほしい」といったら、それは自分の願望ではありながら、人に働きかけることばではない。
実際、「お吸い物をちょうだい」といえば近くのお椀に即座に手が伸びるものだが、「お吸い物がほしい」と聞いたら、「だから?」とか「早く言えよ」とか思う可能性だってある。
お吸い物ならまだいい。
「邪魔だよ、どけよ」。立派なコミュニケーションである。
「そこにいるとぼくの邪魔になる」。回りくどい嫌味である。
言葉にだすならまだいい。言葉に出さず、「(何だよあいつ邪魔じゃないかよ。よおし、そのままぶつかってやれ)」と考えて突進してくる人もいる。
行動に移すなら、少なくとも分かりやすい。じっと、睨みつけて不満を悟ってほしい人が一番厄介だ。
そんなコミュニケーション不全が、徐々に蔓延している気がしてならない。仲間うちに対する異常なほどのコミュニケーションに比べ、他人に対する不全のほうは度を越しているくらいだ。
いやあ、自分のことを棚にあげ、いろいろ書いてしまったなあ。もともと、クレームの件からだったな。今日はそれなりに気をつけた。くどいくらい「袋に入れますか」と聞いた。答えてくれる人はいいのだが、無視する人や、答えようとしない人がいる。しかも、答えを自分にしか聞こえない小さな声で言う人もいる。また無性に腹が立つ。で、また、クレームもらうんだろうな、態度悪いって。
ぼくも声は大きくないが、意思表示はきちんとする。曖昧な状態が気持ち悪くて他人にも要求するのが悪い癖ではある。
というか、そんな意思表示ができる人を基準に考えてしまうから、それが出来ない人を物足りなく思うのかもしれない。意思表示しないのならそれでもいいが、こちらが要求したときにそれに応えてくれないのに腹が立つのかも。
そんな人は全体の20%もいないのかもしれないが、20%が30%に増えるのだけはごめんだ。
こんな不平不満はいくらでもあるから面白い。
面白くはない問題だが、こんな小さなことで腹が立つ自分がおもしろい。
しかも、これは結構根が深い。というのは、現代の問題として、問題視しているということ。大上段に構えてとらえているところがぼくらしいのかもな。
それで衝突してクレームを受けないようにしよう。
意地を張るのが衝突の一番の原因でもある。
笑い飛ばそう。
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