寒さも本格的になった。この寂しさが好きでもあるな。
昨日は何かといらいらしていたと反省。土曜日の新宿は、人々みなゆったりモードで、そんな中にせかせかしたぼくが紛れ込むと、いらいらするだろうな。
そんな日は繁華街に行くのが間違いだな。行かざるを得なかったんだけど。
金曜日だったか、駅で二人の男性がもめていた。しかも無言で、暴力というより、一人がもう一人を押さえつけているようであった。だから、通り過ぎる人も二人はじゃれあっているようにしか見えなかったのだろう。
その二人のもめごとがエスカレートして、とうとう駅の売店のほうへもつれて行った。そして売店の簡易棚を倒して落してしまった。
買い物をしていたおじさんが、どすの効いた声で「こらあ」と言ったのには驚いた。そのおじさんも二人の成り行きは気になっていたようで、とうとう周囲に被害を与えたのを見かねて、注意したのだろう。
ええ、とかく世間は、見ていても見ぬふりというか、係り合いになるのを避けようとするが、そんななかで、こうした叱責というのは尊いものだ。
干渉すればいいというわけでもないが、相手の領域への入り込み方というのは難しいものだ。
先日、小さい自分の子供相手に、大人に対する喧嘩のように怒り・怒鳴りまくっている父親を見かけた。子供は泣きじゃくっていた。親の子供に対する接し方の一線を超えた、子どもと対等に喧嘩する態度だった。大人げないとは思いながらも、親を注意するわけにはいくまい。
駅のホームで喧嘩している高校生もいた。取っ組み合いになった途端に、周囲で見ていた50代の女性が「馬鹿者!やめなさい」と注意したのをきっかけとして、周囲の男性たちが仲裁に入ったこともあった。
周りに何らかの被害を与えない限り、人に干渉することは難しいのであろうか。
しかし、こんな例もある。
中国に行ったとき、二人の人が口論を始めた途端に、周囲の人が野次馬のように集まってきて、成り行きを見守るのである。これは、ほんとに野次馬なんだろうな。何が起こるんだというのを、間近で見たいという欲求。こうなると喧嘩の二人は暴力をできなくなる。したがって、二人は口論というかたちでエスカレートせざるを得ない。
なかなか理にかなった社会のシステムだと思う。
喧嘩の二人は、周囲から放っておかれることで、増長して手を出さざるをえなくなるものだろうか。最初から周囲が監視していると、口喧嘩で終わるのだろうか。
電車のなかの喧嘩でもそうだな。
電車のなかで二人がもめあうのを周囲が知らんぷりすると、どちらかが手を出す事態が起きやすい。
その喧嘩の成り行きに、周囲の一人でも、立会人として参加しているぞといった態度を見せていると、喧嘩の二人は、その立会人を裁判官としてしまう。もしくは自分の仲間に引き入れたくなる。
前に、駅の中で取っ組み合いの喧嘩をしていた両人を止めにはいったことがあるが、喧嘩を止められた一人の男性から「ありがとう」と言われたのに、はっとしたことがある。その男性が積極的に攻撃していた側だったからなおさら。誰かに喧嘩を止めてもらわばければ、きっと負傷させていたかもしれない。
きっと、周囲の仲裁を無意識に求めていたのかもしれないなと、そのときに感じたものだ。
結論は、周囲はもっと積極的に人に干渉していくのが、いいんじゃないかということだ。何か言われるんじゃないか、自分も被害にあうんじゃないかという不安から、つい傍観してしまうものだけど。社会の監視が緩くなっているといわれる現代だからなおさら、人の領域にずかずか入りこむ。うざいと言われても干渉すること。心がけ次第で、どうにでも住みよい社会になるのではないかね。
金曜日の、叱ったおじさんを見て、ふと考えさせられたことでした。
ちょうど時間になりました。また執筆いたします♪〜
昨日は何かといらいらしていたと反省。土曜日の新宿は、人々みなゆったりモードで、そんな中にせかせかしたぼくが紛れ込むと、いらいらするだろうな。
そんな日は繁華街に行くのが間違いだな。行かざるを得なかったんだけど。
金曜日だったか、駅で二人の男性がもめていた。しかも無言で、暴力というより、一人がもう一人を押さえつけているようであった。だから、通り過ぎる人も二人はじゃれあっているようにしか見えなかったのだろう。
その二人のもめごとがエスカレートして、とうとう駅の売店のほうへもつれて行った。そして売店の簡易棚を倒して落してしまった。
買い物をしていたおじさんが、どすの効いた声で「こらあ」と言ったのには驚いた。そのおじさんも二人の成り行きは気になっていたようで、とうとう周囲に被害を与えたのを見かねて、注意したのだろう。
ええ、とかく世間は、見ていても見ぬふりというか、係り合いになるのを避けようとするが、そんななかで、こうした叱責というのは尊いものだ。
干渉すればいいというわけでもないが、相手の領域への入り込み方というのは難しいものだ。
先日、小さい自分の子供相手に、大人に対する喧嘩のように怒り・怒鳴りまくっている父親を見かけた。子供は泣きじゃくっていた。親の子供に対する接し方の一線を超えた、子どもと対等に喧嘩する態度だった。大人げないとは思いながらも、親を注意するわけにはいくまい。
駅のホームで喧嘩している高校生もいた。取っ組み合いになった途端に、周囲で見ていた50代の女性が「馬鹿者!やめなさい」と注意したのをきっかけとして、周囲の男性たちが仲裁に入ったこともあった。
周りに何らかの被害を与えない限り、人に干渉することは難しいのであろうか。
しかし、こんな例もある。
中国に行ったとき、二人の人が口論を始めた途端に、周囲の人が野次馬のように集まってきて、成り行きを見守るのである。これは、ほんとに野次馬なんだろうな。何が起こるんだというのを、間近で見たいという欲求。こうなると喧嘩の二人は暴力をできなくなる。したがって、二人は口論というかたちでエスカレートせざるを得ない。
なかなか理にかなった社会のシステムだと思う。
喧嘩の二人は、周囲から放っておかれることで、増長して手を出さざるをえなくなるものだろうか。最初から周囲が監視していると、口喧嘩で終わるのだろうか。
電車のなかの喧嘩でもそうだな。
電車のなかで二人がもめあうのを周囲が知らんぷりすると、どちらかが手を出す事態が起きやすい。
その喧嘩の成り行きに、周囲の一人でも、立会人として参加しているぞといった態度を見せていると、喧嘩の二人は、その立会人を裁判官としてしまう。もしくは自分の仲間に引き入れたくなる。
前に、駅の中で取っ組み合いの喧嘩をしていた両人を止めにはいったことがあるが、喧嘩を止められた一人の男性から「ありがとう」と言われたのに、はっとしたことがある。その男性が積極的に攻撃していた側だったからなおさら。誰かに喧嘩を止めてもらわばければ、きっと負傷させていたかもしれない。
きっと、周囲の仲裁を無意識に求めていたのかもしれないなと、そのときに感じたものだ。
結論は、周囲はもっと積極的に人に干渉していくのが、いいんじゃないかということだ。何か言われるんじゃないか、自分も被害にあうんじゃないかという不安から、つい傍観してしまうものだけど。社会の監視が緩くなっているといわれる現代だからなおさら、人の領域にずかずか入りこむ。うざいと言われても干渉すること。心がけ次第で、どうにでも住みよい社会になるのではないかね。
金曜日の、叱ったおじさんを見て、ふと考えさせられたことでした。
ちょうど時間になりました。また執筆いたします♪〜
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