第6部まできた。
次郎長一家が、殺害の件で、当局から逃げ回っているという状況である。
ものすごく暗い、湿った雰囲気のなかで映画は始まるのだが、この基調がすべてを重くしてしまったように思える。今回の6部は、暗く重い。
映画の始まりは、演劇ほどの重要性はないにしても、大事なものである。演劇よりも、始め方に可能性があるのは確かである。
今回の重々しい始まり方では、作品全体が暗くなってしまう。おちゃらけた場面があったとしても、そんな場面もすべてお蝶の死に収束されていく。
もし、この回の始まりが、明るく楽しめる始まり方だったとしたら、終わり方と同質のものとなり、まとまりがついていたであろう。もしくは、明るく始まらなくても、次第に明るくなっていったとすれば。
何が暗いかといえば、まず画面。暗過ぎて表情が見えない。また雰囲気が沈んで湿っぽ過ぎて、それ以上の涙の場面はくどすぎる。情緒芝居にしか見えない。
鬼吉が両親に金を借りに行く場面のカラっとした雰囲気こそ、作品のはじめに必要だったと思う。あの場面は喜劇と涙が乾燥した空気のなかで調和したような、優れた場面だった。
保下田の久六の登場も、悪役と信じさせない性格づけがなされており、それがこの場面の明確な輪郭を作っていた。
小松村の七五郎とお園の場面は、そんな沈んだ雰囲気を払しょくしようと軽く粋なものに見せようとしたのだろう。お園の演技は軽妙で、おかしいものではあったが、ひとり芝居に思える部分も多くあった。声がひとりごとの調子であったので、複数の人との芝居の場面では、有機的にからんでいなかった。
シリーズもここまでくると、試行錯誤を繰り返すのであろう。新しい要素もいれなければならない。
「男はつらいよ」の連作6作目ぐらいから変化を見せているのと同じである。製作側もマンネリはつらいのかもな。
次郎長一家が、殺害の件で、当局から逃げ回っているという状況である。
ものすごく暗い、湿った雰囲気のなかで映画は始まるのだが、この基調がすべてを重くしてしまったように思える。今回の6部は、暗く重い。
映画の始まりは、演劇ほどの重要性はないにしても、大事なものである。演劇よりも、始め方に可能性があるのは確かである。
今回の重々しい始まり方では、作品全体が暗くなってしまう。おちゃらけた場面があったとしても、そんな場面もすべてお蝶の死に収束されていく。
もし、この回の始まりが、明るく楽しめる始まり方だったとしたら、終わり方と同質のものとなり、まとまりがついていたであろう。もしくは、明るく始まらなくても、次第に明るくなっていったとすれば。
何が暗いかといえば、まず画面。暗過ぎて表情が見えない。また雰囲気が沈んで湿っぽ過ぎて、それ以上の涙の場面はくどすぎる。情緒芝居にしか見えない。
鬼吉が両親に金を借りに行く場面のカラっとした雰囲気こそ、作品のはじめに必要だったと思う。あの場面は喜劇と涙が乾燥した空気のなかで調和したような、優れた場面だった。
保下田の久六の登場も、悪役と信じさせない性格づけがなされており、それがこの場面の明確な輪郭を作っていた。
小松村の七五郎とお園の場面は、そんな沈んだ雰囲気を払しょくしようと軽く粋なものに見せようとしたのだろう。お園の演技は軽妙で、おかしいものではあったが、ひとり芝居に思える部分も多くあった。声がひとりごとの調子であったので、複数の人との芝居の場面では、有機的にからんでいなかった。
シリーズもここまでくると、試行錯誤を繰り返すのであろう。新しい要素もいれなければならない。
「男はつらいよ」の連作6作目ぐらいから変化を見せているのと同じである。製作側もマンネリはつらいのかもな。
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