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次郎長三国志8 海道一の暴れん坊

第8部のクライマックスにやってきた。この回は、石松の死という、次郎長の物語のピークを迎える。
石松の死は、廣澤虎造の浪曲で何度も聞いてはいたが、虎造の語りで描かれる石松の壮絶な死とは違って、マキノ監督のそれは叙情的な側面があった。

石松と小政のそれぞれの恋が、このクライマックスの性格を印象付けた。
石松も小政も、すぐそばに恋する人がいないところでのやりとり。いわば、恋人のイメージが二人を包む。小政の恋人「お藤」は姿さえ現わさないし、石松の恋する「夕顔」は、石松が別れを告げてから、イメージが増大する。

たとえば、石松の死の場面で、仮に石松でなく七五郎が死んだとしたら、愛する女房お園が傍にいるので、七五郎の死は悲劇性を帯びたであろう。
石松の死は、恋し恋される夕顔が傍らにいないので、夕顔の花のそばで死ぬという抒情性を帯び、石松も夕顔を思い浮かべながら死んだであろうことは想像がつく。

次郎長一家の死人のうち、豚松やお蝶の死は、まさしく悲劇であった。そして、暗かった。石松の死は、画面は暗くても、希望の見えるものであったし、美しかった。
これは、死を美化することなので、人間の真実をとらえているとはいえないだろう。しかし、豚松やお蝶の死の、あの暗く救いのない描写よりも、石松の死の描写の方が好感持てるのはなぜであろうか。
人の死に意味をつけるのが人間である。石松の死のあとの、あの開放的な浜辺で次郎長一家が走り出し、おそらく石松の仇を討ちにいく姿の方が、何倍も心をとらえるものである。

さて、全体として、また軽いタッチのマキノ節に戻っているところが楽しかった。旅の遠景の演出もさすがで、前回は屋内の戦闘を褒めたけども、今回は屋外の旅姿におもしろみをみつけた。
第3部だったか、石松と三五郎とお仲の出てくる旅の場面でもそうだったが、遠景からアップに来ないところがよい。遠景の人物がてくてく歩いていくと、アップしてその人の説明をしたいところだが、遠景は遠景で人物描写をする。だから体の動きや振り付けの演出が大事になる。遠景でどんな人かが分かれば、アップしてそれを拡大する必要はない。アップの場面は、また次の描写をすればいいわけだ。

また最後に、森繁久彌の石松の演技は、渥美清の演技に似ている。渥美清が森繁の演技を勉強していたことがわかる。そして石松は森繁の名演といえるだろうな。ノリに乗っている姿が見てとれる。役と映画の幸せな結婚をみたかのようだ。

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