清水の次郎長における社会学や、やくざについてはあまり興味がないので、ここでは話さない。語り口が楽しいのはなぜかというところにしか興味がないようだ。
映画の輝きというか、わくわくさせるような要素ってのは何なのかということをどうしても知りたい。
今日の映画は、石松と追分三五郎の、投櫛のお仲への恋物語が主だった。
二人が知り合ったばかりとはいえ、何だか知らない友情を結ぶ所が大きな意味があるのだろう。言ってみれば「でこぼこのコンビ」なのだ。石松は純情で馬鹿正直な小さい男。追分三五郎は美男で背の高い、いい男。この二人がいつのまにか同じ女に惚れるところが面白い。
いわゆるキャラクターの違う二人が友情を結び、離れようとしても、ついつい離れられなくなる構図は、いくつかの映画によく見られる構図だ。
その二人がいろいろなおかしな事件を起こすのがおもしろいのだな。
また、一方、次郎長たちは博打を打っているところで捕まり、牢屋に入る。
その牢屋の中で、牢名主たちの序列と横暴に反乱を起こすのだが、考えてみればこれは、力で力を制するのであって、何も民主的ではない。大義名分は、病気の男に味方した次郎長たちにあるようだし、この映画を見る人も次郎長に加担するだろうが、権力闘争にすぎないともいえる。水戸黄門に味方するようなものだ。
そんな結末自体はおもしろいものでも何でもない。
しかし、次郎長たちが牢名主たちの横暴を、黙って素直に聞きれようとしている姿がいたずらっぽくておもしろい。ひとこと「清水の次郎長だ」といえば序列が変わってしまうところを、あえて自分が下で耐え忍んでいる。水戸黄門が素性を明かさないでおとなしくしている状態と同じだ。
そんな逆転というか、観ているお客さんは知っていて、次郎長たちが知っているけど、牢名主たちが知らない事実があるということがおもしろい。その半公然の秘密が、いつばれるかいつばらすかと引き延ばしするところが、娯楽のツボをつかんでいるのだろうな。
マキノ雅弘の演出の妙味は、今回は、お仲と石松の酒場での場面によくあらわれている。みな歌で終わるではないけれど、歌を歌いながら、恋をしている石松が駆けだしていくという演出は、決定的に正しい解決の仕方で、場面の情動と、登場人物の盛り上がりと、クライマックスが、最も鋭く描かれている場面といえよう。
きっとこれがミュージカル的なものなのだろうね。
映画の輝きというか、わくわくさせるような要素ってのは何なのかということをどうしても知りたい。
今日の映画は、石松と追分三五郎の、投櫛のお仲への恋物語が主だった。
二人が知り合ったばかりとはいえ、何だか知らない友情を結ぶ所が大きな意味があるのだろう。言ってみれば「でこぼこのコンビ」なのだ。石松は純情で馬鹿正直な小さい男。追分三五郎は美男で背の高い、いい男。この二人がいつのまにか同じ女に惚れるところが面白い。
いわゆるキャラクターの違う二人が友情を結び、離れようとしても、ついつい離れられなくなる構図は、いくつかの映画によく見られる構図だ。
その二人がいろいろなおかしな事件を起こすのがおもしろいのだな。
また、一方、次郎長たちは博打を打っているところで捕まり、牢屋に入る。
その牢屋の中で、牢名主たちの序列と横暴に反乱を起こすのだが、考えてみればこれは、力で力を制するのであって、何も民主的ではない。大義名分は、病気の男に味方した次郎長たちにあるようだし、この映画を見る人も次郎長に加担するだろうが、権力闘争にすぎないともいえる。水戸黄門に味方するようなものだ。
そんな結末自体はおもしろいものでも何でもない。
しかし、次郎長たちが牢名主たちの横暴を、黙って素直に聞きれようとしている姿がいたずらっぽくておもしろい。ひとこと「清水の次郎長だ」といえば序列が変わってしまうところを、あえて自分が下で耐え忍んでいる。水戸黄門が素性を明かさないでおとなしくしている状態と同じだ。
そんな逆転というか、観ているお客さんは知っていて、次郎長たちが知っているけど、牢名主たちが知らない事実があるということがおもしろい。その半公然の秘密が、いつばれるかいつばらすかと引き延ばしするところが、娯楽のツボをつかんでいるのだろうな。
マキノ雅弘の演出の妙味は、今回は、お仲と石松の酒場での場面によくあらわれている。みな歌で終わるではないけれど、歌を歌いながら、恋をしている石松が駆けだしていくという演出は、決定的に正しい解決の仕方で、場面の情動と、登場人物の盛り上がりと、クライマックスが、最も鋭く描かれている場面といえよう。
きっとこれがミュージカル的なものなのだろうね。
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